生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

さまざまなサイズのチューニング

朝、いつものハムときゅうりのオープンサンドを作って食べる。仕事の合間に仙草ゼリーのもとが1箱残っていたので作り、昼は残りものの手羽元の甘辛さっぱり煮とごはんを食べ、残った時間でしなびてきていたにんじんでキャロットラペを作った。なにやら料理を作ること、食べることばかり熱心にやっている気がするが、冷蔵庫がちゃんと空になっていっていくのはうれしいし、残りものをちゃんと何かしらに変えて食べられるようにできるのもうれしい。

引っ越して約1か月、ゴミが出ないことに驚いている。分別のルールが細かいというのもあるかもしれないが、週2回の燃えるゴミの日にとにかく捨てたいのは生ゴミくらいのもので、こんなにも出ないなんて、と不思議な気持ちになる。ほぼ自炊しているからだろうか、それとも一人だからだろうか。両方かな。これまでの癖で45リットルのゴミ袋を買い、大きすぎると気づいて20リットルのゴミ袋を買い、今週になって10リットルでもよかったのかもしれないと思った。これまでの体感といまの実際がまったく伴わず、こういう日々の、こまかいサイズの違いについては繰り返しているうちにわかるようになるんだろう。

夜、きゅうりなどの残り野菜の千切りとラブパクソースをのっけた素麺をたべた。

そのあと、スーパーのチラシを見ていたら野菜がすごく安い日だったので、歩いて出かけた。たまねぎは1個38円、にんじんも1本38円、ぶなしめじは1袋78円。魚がずいぶん高くなっていて驚いた。だけど食べたくてしゃけを買った。あとしろくまも。

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シェアルーム引き渡し、なにものかになりたいという時間を過ぎて

昨日は旧居の最後の掃除へ行き、今日は不動産屋さんに部屋を引き渡す日だった。

家へ向かう前に同居人の一人と待ち合わせて米麺を食べに行った。二人して唐辛子にむせて、辛いね、辛いねと言い合いながら、丁寧にそれを取り除いて食べた。辛さに慣れてきたところで、最近見ているドラマの話などをした。

10年程度暮らしていた部屋はそれなりにくたびれており、掃除はしたもののきれいになりきらない部分もあったので心配していたのだが、引き渡しはあっけなく済んだ。不動産屋さんに鍵を返し、そのあと元同居人となった友人の家でしばらく涼ませてもらった。友人の家にはシェアルームのリビングにおいてあったテレビやこたつがそのまま運び込まれており、気づいたら3人でいつもの配置で座っていて、ちょっと笑ってしまった。こうやって座ることも、もうあまりなくなるだろう。

帰り道、寄ったスーパーで疲れていることに気づいた。お惣菜でも買って帰ろうと思って寄ったのに、何が食べたいのかわからず、「特売」の文字につられて白桃を買った。

最近、この20年くらいを棚卸ししていて、ずっとなにものかになりたいばかりの時間をわたしは過ごしてしまったのかな、と思い、かといって別にもどってやり直したい気持ちもなく、ただこの死んだような状態のままずっと過ごすのはつらいなと思っている。ゼロからじゃなく、自分の持ちものを眺めて組み立ててみようとは思っているけれど、それにはもう少し時間がかかりそう。「足りない」というところから組み立てるのではなくて、できれば自分の持っているものをただ持っているものとして確認するところからはじめられたら、とは思う。

雨、立ち寄る場所の変化、ソール・ライター展

洗濯物を干してでかけたのに、職場の最寄り駅についたら雨がざあざあと降っていた。しまった、と思ったけれど仕方ない、家に帰れるわけでもないのでそのまま仕事をした。

コロナ禍を経て出社は週1日となったが、出社したときにしかできない仕事をまとめて片付けることになるので意外といそがしい。大変だけれど、少し郊外に引っ越した関係で、電車に乗る時間も長くなり、都心部に出かける頻度も減っているので、出社が以前よりもずっとイベントっぽくなってきた。経由する駅が変わり、目に入ってくるものも変わり、行動も少し変わったように感じる。

職場から帰る道すがら、「ソール・ライターの原点」に立ち寄った。写真展なんて本当に久しぶり。コロナ禍の期間にはこういった展示に行くのもなんとなく躊躇したし、見送ることも多かったから、見られたことを素朴にうれしいと感じてしまった(とはいえ感染はまったくおさまっていないのだが)。そしてソール・ライターの写真の、世界をひっそりと見つめる視点がすごく良くて、図録を買ってしまった。

写真は「眼差す」行為からは逃れられないと思うのだけれど、眼差すことの暴力性と、何かしらの慈しみの表裏一体というか、グラデーションについて考えていた。眼差し、意味づけること、歪めること、都合のよいストーリーの登場人物として演出すること、といったもののなかに暴力性がある気がするけれど、わたしたちはどこまで判断を保留した状態を保てるんだろう。

「ソール・ライターの原点」の入り口
「ソール・ライターの原点」の入り口

ソール・ライターの撮ったダイアン・アーバスのポートレート
ソール・ライターの撮ったダイアン・アーバスポートレート

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8月21日(月)晴れ

朝、日曜に作っておいた仙草ゼリーをバナナとミルクと一緒に食べる。前食べたときはそんなに甘くないと感じたけど今回は随分甘く感じた。そのあとお腹が空いたタイミングでちまちまご飯を食べ続けてしまった。

新居には炊飯器がない。今後も買わない予定なので鍋でお米を炊いている。予め水を吸わせる時間が必要だが、火にかけてしまえば20分程度でお米が炊けるのでとても便利だし、火にかけている間、ぼーっとしつつそばにいるのも悪くないなと思う。炊飯用に土鍋を買おうと思っていたけど、お鍋のままでも十分かもしれない。

こまごま必要だと考えているものはあれど、本当に必要か?みたいな気持ちがあってなかなか買えずにいる。収納があればあるだけものを詰め込む気がするし、引っ越す前にした整理でも判断がつかずに保留、ということはあって、手放すのはそんなに簡単でもない。

 

 

日記を再開出来るか?

朝、お腹がぺこぺこでチキンライスならぬハムライスを作って食べる。昼、夏野菜と鶏肉の煮込み。夜、シェアルームでピザ。こう書くと今日はちょっと食べ過ぎだったかも。

暑い日だった。土曜日は貧血気味で1日横になって過ごしたので、今日は朝から洗濯をしたり、買い出しに出かけたり。冷蔵庫はもうワンサイズ大きくてもよかったかもとか思いつつ休憩を挟み、部屋の掃除もした。引っ越して二週間、やっと寝室の床から山になっていた洋服が消えた。

夕方、シェアルームに顔を出して片付けをしたあと、新居に帰ってきた。あまりに静かなので小さな音で音楽をかける。金曜日に帝劇で『ムーラン・ルージュ!ザ・ミュージカル』を見た影響で、スティングを聞いたりしている。「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」は20歳そこそこの頃、好きだった二次創作のサイトの管理人さんがおすすめしていて、よくわからないながらも、その人が良いと言う、その良さを自分でも味わえるようになりたくて聞いたものだった。今も良さがわかっているとは言い難いが、聞き慣れた曲にはなった。好みだけで言えば、ロクサーヌがわたしは好きだ。


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シェアルームから帰ってくる途中で、その寂しさを思わず書き綴ってしまったが、一人の時間が増えるのだから、自分のために時間を使うようにしてみようかなと思う。読んだり、書いたり。これだけを書くのにも、えらい時間がかかってしまった。言葉にして残しておくのは大変だな。

シェアルームの片づけ

旧居の片付けにでかけた。もっと早く行くつもりが、新居の片付けや里帰りや、体調を崩して寝込んだりといったあれこれに押し流されて今日になってしまった。

同居人たちの引越の荷造りはまさに佳境で、誰が持ち主かわからないものなどを捨てたり、共同で使っていたタッパーや調味料などこまごましたものをもらったりした。10年同じ場所に暮らすというのはこういうことだと思った。

そうこうするうちに、なんとなく夕飯の時間になったので、同居人の一人にピザを買いに行ってもらった。3人ならLサイズを一枚くらいかな、といったら、うそでしょ、Mサイズ二枚くらいはいけるよ!!!と力強く返ってきて笑ってしまった。突然のピザパーティーじゃん。

荷物に囲まれて食べるピザはおもいのほかさみしかった。青春の終わりを感じた。わたしももう若くないのであたりまえか。この終わりをどう整理して次に行くか、まじめに考えないと、さみしさに負けてしまう瞬間があるかも、と思った。

とはいえまたピザパーティーをするし、餃子パーティーもするし、ピクニックもします。

来週、もう一回片付けに行く。でもそれで本当に終わりなんだな。いまはたださみしい。しみじみとさみしいので、そのことを書いておく。

ルームシェアの終わり

引っ越しは来週の予定。10年ほどやっていたルームシェアも終わり、1人暮らしに戻る。 不安だったのかものすごく前倒しで引っ越しの準備をしてしまったのだが、近づいてきたら逆にだらだらしはじめてしまった。

実生活がそんななか、Twitterも「X」という名前に変わり、サービスの哲学が何もかも失われた気がして、新しい場所を探してふらふらしている。

新しいSNSがほしいっていうより、こう、親しきひととひそひそ話したり、話しづらいけど誰かに聞いてもらいたいとか、こぼしたい話をぽろぽろしたり、そういう場所がほしいんだよね

さまざまな表現で消えたさについてここで話して、消えたさをゆるゆると押し流して、外に出てがんばるわけだから、やっぱりなくなると困るなとは思った。安心して消えたさについて話せる場所ってあんまりないからなあ。心配させるしね。心配させたいわけじゃないし、実際消えたいわけでもないからな。

昨日こんなことをつぶやいた。Twitterはまさにこういう場所だった。でも安全な場所かといわれると、ここ数年まったくもってそうではなくなってしまったので、潮時かな。変わっていくときは身の回りの何もかもが変わっていくんだなあと思う。

ついでにこのブログの名前も変えました。404 not foundじゃなくてもよくなったので。何か良い名前があるといいんだけどなあ。とりあえず生活🐌の記録にして、しばらくやっていってみる。