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雑多な日記

終わりとはじまりの2019年

身内のことでバタつき、ひどく落ち込んでしまって気の休まらない年末年始でしたが、東京に戻ってきてからすぐ友人たちがご飯に誘ってくれたり、今日は短歌の友人に会って、いろいろ話を聞かせてもらったりして(完全にわたしのお悩み相談室だった)、ひとつ何か終ったような気持ちになる年始でした。友人たちに本当に助けられています。ありがとう。

抱負をなかなか立てられずにいたのですが、今年は自分の好きを貪欲に選び取っていく一年にしたいです。去年もけっこう、自分はこれが好きかな? どうかな? みたいなかんじで身に着けるものから生活までいろいろゆっくり選びながら過ごしたのだけど、今年はよりいっそうそういうかんじにしたいなと。

如何せん揺れてばかりではあるけれども、ここまできたら焦らず、揺れるのもありあり、くらいの気持ちでやっていきたいなと思う。

短歌もマイペースにやりたいし、陶芸も環境整えたりしたいです。

諦めなければならないこともあるのですが、もう十分やったよね、というのもあって。十二分にやったから、もういいんだ、と思いたい。焦らずマイペースにがんばります。

今年もどうぞよろしくお願いいたします!

2018年総括:積み上げられていない気がいつもしてしまう

総括しようしようと思いつつ年末ぎりぎりになってしまった。

いつものことながら、毎月何かしらでめそめそしていた。振り返ってみると基地作ったり、共有結晶Vol.4作ったり、陶芸再開したり、大学に入学したり、お酒を控えるようになったりと、いろいろ動きはあったのだけれど、あんまり覚えていない。勉強もさぼっているのでがんばらないとな…。

自分が何も積み上げられていないなあとやっぱり思ってしまう。いつまでわたしはからっぽのまま右往左往しているのだろうとぼんやりしてしまう。あんまり自分を責めずに、生きているだけでよしという気持ちになりたい。それでも夏はがんばって、冬は少しさぼる、みたいなかんじのリズムができているので、まあいいかなあと思ったりもするのだけど。

いかんせんやっていることが多すぎるのだよね。来年はもう少しやること絞らないとな、と言いつつ前半はもうパツパツです。

1月

  • 陶芸再開した。月2回くらい。
  • 共有結晶4号もこのあたりから?ぜんっぜん覚えてない。

2月

  • 宝塚大劇場までポーの一族を見に行く。なんかよくわからないが宝塚というものにすごく感動して、泣きながら帰った。

3月、4月

  • 自分の作品集をまとめたり、デザイナーさんとやりとりしていた気がする。
  • 短歌がまったく作れなくなっていて死んでいた。しばらくずっと。

5月

  • 友人の引っ越しに合わせて作業場として基地を作る。作るだけ作って今年はそこで陶芸をすることはなかった…。なんとなく土を持ち込めずにいる。
  • 短歌と川柳の作品集「対岸へ渡る」を作る。出す出す言ってやっと出せた。手に取ってくださった方、栞文を書いてくださった友人たち、ありがとうございました。

6月

  • スプーンとか作っていたぽい。
  • BADDYとかもみてたらしい。
  • なんかすっごいめそめそしてたっぽいことがツイッターの形跡を見ているとわかる。何をそんなにめそめそしていたのだろう。まったく思い出せない。

7月

  • 記憶がない。やりたいことがなくてもやもやしていた。
  • 自主的にサマータイムをはじめた。

8月

  • 水戸芸術館の「内藤 礼―明るい地上には あなたの姿が見える」を一人で見に行く。静かで開けていて清潔な場所は好きだ。
  • 唐突に大学へ行こうと思って資料を取り寄せたりしていた。(無事入学はしました。勉強はできていません!)
  • このあたりからヒプの短歌つくりはじめてる

9月

  • 下旬から共有結晶のページ成型でもりもり動いていた。ぽい。
  • アロハ着て横浜に遊びに行ったりした(そんな時もあった)

10月

  • BLについて熱心に書き始めていた。
  • このあたりから仕事がより忙しく…

11月

  • なんかあっという間に文フリだった。共有結晶Vol.4が出たよ!
  • プラバンでアクセ作ったりしていた
  • 大学のレポート一生懸命やってた。
  • あんま記憶がない…ヒプノシスタンカはぽつぽつ作ってた。あとBLもめっちゃ読んでた。
  • さぼっていた病院へいったのは11月だったか、12月だったか…ほんと記憶が…

12月

  • ヒプコミカライズショックによりなんか1週間くらい死んでいた。
  • ここ数日だいぶ冷静である。
  • 創作全般できてないなあとぼやぼや。

迷子は続くよどこまでも

ツイッターだと気持ちの動くままに書いてしまうので、こちらにぼちぼち。

だいたい行動は何を得たいかというゴールを起点に逆算して決まるものだと思うのだけれど(ゴールがわからない状態で衝動だけがある場合もあることはあるけど)、わたしはいま何を得たいかがぜんぜんわからず、衝動もない状態にある。というのも、今朝「サマージャンボ当たらねえかなあ」「2億円くらい当たりたい」みたいな適当な会話をしたものの、実際2億円当たったところで特段やりたいことがないなあ、と思ってしまったのだ。

やりたいことはなんだっていいだろう。美味しいものが食べたいとか、すてきな家に住みたいとか、勉強したいとか、推しを追いかけたいとかなんだっていい、なんだっていいのだ。小さなことから大きなことまで。

でもいまは気軽な気持ちで「〇〇やりたいなー」とかそういうこともない。

何もやりたいと思えない、ということは自分の行動がまったくもって定まらないし、気持ちも動かない。鬱とも違うなあ、と思う。鬱と付き合って長いけれど、鬱のときはもっと「やりたくない」という気持ちが強い。いまはそういうことでもない。

自分の手に余るようなことが継続的に起こってきたことを思えばいまの状態って別に悪くないんだろう。日常にちょっとしたトラブルはあれど生活も仕事も困ってはいないし、ひどく傷ついて立ち上がれないようなこともない。本当にどうしようもない、どうしようもできないみたいな問題が手の中にないことが不思議すぎて、ぽかーんとしてしまう。らくなのか? いや、けっこうこういう状態ってむつかしい。つらい状態を抜け出すことが第一のこととしていままで過ごしてきてしまったから、わからないのだ。やりたいこと?と問われて、やりたい、こと?とオウム返しをするばかりで。いままでの選択に後悔はないけれど、なんというか、人生を楽しむ、ということもまた学習しなければできないのかもしれない。いまが平和だとしても、別に絶対じゃないから。これがずっと続くわけじゃないから、とも思ってしまったりもするし。慣れていないだけだね。

少なくとも鬱にならずに、倒れるようなこともなく毎日きちんと働けたら。本当はここで、次のステップを考えられたらいいことはわかるんだけど、まだわからないなあ、と思う。

生活を保てることも、深く眠れることもまた喜びだと思う。カラカラのところからやっとここまできた、みたいな気持ちはあるから、いいのかな。いいのかもしれないな。ここまできたことは褒めてあげたいとも思ったりもする。またこれが溢れていったら、不満もでてきて、なにくそってなるのかもしれない。

ひとまずこのだらだらしたどうしようもなさ、みたいなものを満喫したいとは思う。あとこうやってとりとめなく書いていると少しは上向くから、しばらく自分のために日記はつづけたい。

(フィクションのなかの)悪に生かされている

先日「BAADY」を観たあと、バンドの話などをしていて、久しぶりにDir en greyの最新曲のPVを見た。相変わらずえぐさが極まっていた。Youtube用に表現規制していた映像であっても十分すぎるほどで、あのもやの向こうでは人間の体が松かさのように開かれていたのだと思う(実際見る勇気はなかった)。

改めてみながら、ああもうDirはずっと、というか歌詞を書いているのは京くんだから、京くんは、悪を悪として描き続けているひとなのだということを思った。美化するでもなく、ただただおぞましいものとしてあるもの。救いはなく、その悪を放ったあとの人間は悪を引き受けるほかない、といったような。えぐさをさらに煮詰めたような映像は、曲は、歌は、ほとんど吐き気とともにある。

10数年前に彼らを追っていたとき、わたしは、その悪の描き方に信頼をおいていたのだ、と思った。どうしてあんなに惹かれていたのか、当時は言語化できていなかった。実際熱に浮かされるようにして追いかけていた部分もあるだろう。

日常における小さな悪は隠されており、繰り返し繰り返し思春期のわたしを傷つけてきたけれど、明らかにされた悪はわたしを傷つけなかった。わたしを傷つけるのはいつだって現実にある、隠された悪であり、ぱっと見「良いこと」とされていたものだった。

再び「BADDY」に戻るけれど、見ている最中、ここで描かれる悪は「良いこと」から零れ落ちたものではないのか、とどうしても思ってしまっていた。あいまいなところで漂うものを悪だと定めるのは「良いこと」ではないのか。そう思えばみんながひとつの天国に運ばれていったこともわからなくない。良い子でいても、悪いことをしても、みんな天国へ行く。ただ社会を潔癖に保つためにさまざまなものが見えなくされているだけで。

グッディが怒りを取り戻す場面。怒りを発露することさえ「悪」とされていた世界で、「生きている!」と叫びながら脚を蹴り上げる、あの美しい怒りに胸が奮えないことがあるだろうか。怒りもまた隠され続けてきた感情だった。

宝塚とDirではぜんぜん重なる部分がないわけだけれど、唯一悪を描く、というところを媒介に考え続けている。創作物でしか発露できないもの。そういうものの存在を感じずにはいられない。

もちろんこれは社会のありようとセットだから、手放しに暴力的な描写や、あるいは悪を賛美するようなものを、受け取る側の人間として持ち上げてはならないことはわかるし、わたしはゾーニングは必要だと思っている立場の人間だけど、現実の悪の存在が露わにされないのなら、創作物できちんと悪を悪として、示す必要はある、というより、そういうものを見たいと思う。はじき出されてきた感覚のあるひとりとして、創作物の中の悪により生かされてきたものとして。

社会がもっと懐深くあったなら。失敗しても立ち上がれる土壌があれば、と思うけれど、それについてはまた今度。

対岸へ渡る、通販はじめました

本を作りました

おひさしぶりです。

出す出すといいながら数年経ってしまったのですが、短歌と川柳をまとめた本を作りました。2013年から2017年までの作品が入っています。 

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二次創作で個人誌は出してきたわけですが、一次創作で、かつ詩歌の個人誌を出すのは今回はじめてで。イベントが終わるまではそわそわざわざわ……イベント参加も自分ひとりの本づくりもいつまでたっても慣れないなあ!

 

ひとりで本を作ってみて

詩歌に関わりはじめてからひとりで本を作る機会は減っていたのですが、今回作ってみて改めて編集と書き手では自分の視点の持ち方が違う、と思ったりしました。もしかしたら編集として立つときに、わたしは寄稿いただく方の作品を預かっているという意識が足りなかったかもしれない、みたいな気持ちにもなりました。もっともっと大切に扱わなければならなかったかもしれない、相手の分身ともいえる作品なのだから。

本を出したことで東京以外の場所にも本をもっていきたいなという気持ちが出てきて、来年は新刊を引っ提げて全国各地の文学フリマに出たいなと思ったりしています。

 

なにはともあれ

元気にしています。最近日記を書いていなかったので日記の書き方がわからなくなっているところがあるんですが、またじわじわ書きます。それでは。

ハロかな

週末がたのしい。平日もつらいわけではないけれど、週末の、この夜更かしがたのしい。お酒も飲まず、こたつにはいって、えーもー住み始めて何年? この歌って何年前の歌? えーうっそ、もうそんなにたつの? いま何歳? まじかー出会ったときはこんなだったのにねー、ってわたしもかーまだ20代だったよねー、とかいうエトセトラエトセトラ。眠りを忘れた鳥みたいなおしゃべりにうめつくされた真夜中。

 

今日は宇宙の話を聞いてきた。宇宙開発は軍事と裏表でありつつも、それでも夢があるよなあと思う。

今日見たもので、一番、あれ、わたしの理想がここに…と思ったもの。ハロかな? 


国際宇宙ステーション・きぼう船内ドローン「Int-Ball(イントボール)」の映像初公開

きっとずっとしない約束

 ルームシェアをはじめて4年半になる。

 はじめは4人、ひととき5人になり、さまざまな巡り合わせののち3人に落ち着き、今に至っている。古いマンションだが広さがあるので、みんなで過ごす楽しみとひとりで過ごす時間を行き来しつつ、そこそこ穏やかに暮らしている。

 わたしたち3人は恋人同士ではないし、パートナーシップを結んでいる関係とも違う。友達といえば友達だけど、暮らし始めてから知り合っていることもあり、学校などで出会った友達とも違うように感じる。だらしないところを見る/見られる関係を築いているという意味では、のんきにいえば「家族」のような――と書いてはみるものの、実際にはただのシェアメイトであり、それでよかった、とも感じている。

 「家族」ではないからこそ、「家族」という共同体がときに生んでしまう暴力的な側面から逃れることができるのでは、ということを思ったりもするけれど、今回その話は置いておく。

 そう、「だれと生きる?」、だ。

 わたしはだれかと共に歩むのならば約束が必要だろうとずっと思ってきた。契約、と言い換えてもいい。そういうものがあってはじめてだれかとの間の「ずっと」は担保されるのだろうと思ってきてしまった。ずいぶんとステレオタイプな見方だし、強い呪いだったと思う。

 だれと生きるかという問いをわたしも繰り返しながらここまできたけれど、最近、妙な絶望を抱くわけでも、斜に構えるのでもなく、きっとわたしは誰ともひとつの約束を結ばずに生きていくのだろうなあ、と思っている。

 いまが穏やかであっても、生きている時間のなかに「ずっと」は存在せず、ルームシェアを解消してみんなが分かれて暮らす日はくる。ルームシェアとはそういうものだし、いま住んでいる部屋も維持できなくなったら解消することになる。そんな不安定さのうえにあってなお、いまの生活があることがわたしをずいぶんと助けてくれている。確固たる約束ができないわたしは、手放された風船のように、いつ割れるとも、しぼむともしれない、心細い気持ちでいつづけなければならないのだと思っていたから。共同生活を営むうえで自分ひとりだったら買ってなかったであろうお風呂を洗うための電動ブラシとかを眺めているとそんなことを思う。

 「(これから先)だれと(恋をしたり結婚して)生きる?」、という問いからはわたしは零れ落ちていくにんげんで、でも「(ひとときを)だれと(楽しく)生きる?」、だったらきっと答えられる。

 ずっとという約束は手に入らないかもしれない。でもわたしたちは、約束しなくても、ずっと一緒に暮らさなくても、ひとときの時間を交換しながら生きていくことはできるんじゃないか。そして、それはけっこうゆかいで、ハッピーなことなんじゃないか、なんてことをぼんやりと思う。