生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

シェアルーム引き渡し、なにものかになりたいという時間を過ぎて

昨日は旧居の最後の掃除へ行き、今日は不動産屋さんに部屋を引き渡す日だった。

家へ向かう前に同居人の一人と待ち合わせて米麺を食べに行った。二人して唐辛子にむせて、辛いね、辛いねと言い合いながら、丁寧にそれを取り除いて食べた。辛さに慣れてきたところで、最近見ているドラマの話などをした。

10年程度暮らしていた部屋はそれなりにくたびれており、掃除はしたもののきれいになりきらない部分もあったので心配していたのだが、引き渡しはあっけなく済んだ。不動産屋さんに鍵を返し、そのあと元同居人となった友人の家でしばらく涼ませてもらった。友人の家にはシェアルームのリビングにおいてあったテレビやこたつがそのまま運び込まれており、気づいたら3人でいつもの配置で座っていて、ちょっと笑ってしまった。こうやって座ることも、もうあまりなくなるだろう。

帰り道、寄ったスーパーで疲れていることに気づいた。お惣菜でも買って帰ろうと思って寄ったのに、何が食べたいのかわからず、「特売」の文字につられて白桃を買った。

最近、この20年くらいを棚卸ししていて、ずっとなにものかになりたいばかりの時間をわたしは過ごしてしまったのかな、と思い、かといって別にもどってやり直したい気持ちもなく、ただこの死んだような状態のままずっと過ごすのはつらいなと思っている。ゼロからじゃなく、自分の持ちものを眺めて組み立ててみようとは思っているけれど、それにはもう少し時間がかかりそう。「足りない」というところから組み立てるのではなくて、できれば自分の持っているものをただ持っているものとして確認するところからはじめられたら、とは思う。