生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

ぼうけんの記録(魔女の森編)

ゴールデンウィーク前哨戦とでもいうべき週末であった。大宮に続いて、AさんとYさんと3人で前橋へ出かけた。目的は前橋文学館で開催されている川口晴美さんの『世界が魔女の森になるまで』展である。展示はもちろん、川口晴美さんの作品朗読会があるということで、それを聞きに行ったのだ。 www.maebashibungakukan.jp

朝、東京駅で待ち合わせた。行きは各駅停車で、帰りは新幹線に乗ろうと相談して決めていた。友人と各駅停車に乗っておしゃべりしつつ移動するのが楽しみでならなくて、浮かれるあまり待ち合わせ前に梅の飴玉とレモングミ、あと炭酸水を買った。今回も完全に気分は遠足であった。

前橋は風がすごく強い土地だった。この風はなんなんだろう、というと、Yさんが山があるからじゃないかな、と言っていた。山から吹いてくる風。その土地特有の地形や、独特の気候に少しでも触れられるのは、その場所へ行く醍醐味だなと思う。画面越しにはなかなか体験できない。駅におかれたピアノは行きも帰りも誰かしらが弾いていて、子どもたちがピアノの周りに集まっていたりしてほほえましかった。駅前の通りにはここでも立派な欅が植わっていた。

街中を流れる水辺を辿って前橋文学館へと向かった。お昼ごはんを食べ、展示を見て、ガシャポンをまわして、展示された言葉をゆるゆると追った。

朗読会では最後の群読に圧倒された。そこでこぼされた苦しそうな声は社会の中に数多にあるもので、可視化されつつあるけれど普段は目で読んでいることが多い。あの群読では、音となり立体になって迫ってくるそれに触れられたような気持ちになった。聞いているときもじっと、できるだけ視覚より聴覚が優位になるように、目を伏せていた。

朗読の間に挟まれる作品についての川口さんご自身の解説を聞きながら、小さく反発する気持ちがあることに気づいた。その反発が出てくるたびに「なんだなんだ」と思った。どうしてわたしは説明された内容に反発しようとするんだろう。違和感のあることはなにも言っていないと思う。じゃあ一体、何から? 耳を傾けながらそうやって自分の中でやり取りをし続けていた。少し前までは反発するだけで、その気持ちがなぜ生まれてくるのかをあまり考えられなかった。

わたしはここ数年で「想像」という言葉や行為をあまり信じられなくなった。シスターフッドフェミニズムといったキーワードも以前ほどには。様々な場所でフェミニストが行うトランス女性差別を目にしてきたことに起因する部分もあるが、素朴に自分の「想像力」など、大して信じるに値しないと思うようになったからだ。自分の想像力を働かせるより、目の前の相手の状態や言葉を、まず受け取りたいと思うようになった。

それは一つの態度の話で、そして自分がそうしたい、というだけの話でもある。誰かに同じようになってほしいわけではない。たとえば議論を交わしたとて、結果、わたしと同じ態度で、意見で世界に触れてほしいとは思わない。あなたがどのように世界に触れているか、それがまったく違うことを、わたしは知りたいと思う。とはいえ、揺れもするのだ。その揺れもまたよしにしたいと思っている。触れ方の違いや、今ここで語られているフェミニズムは、シスターフッドは、「誰」を受け入れてくれるものなのだろう? という問いについてじっと考えて、揺れる。それができることはすごくありがたかった。揺れることが許容される時間。そんな空間であり、時間だった。

帰り道、その思考とともに、言葉になる前のやわらかい何かを抱えて帰ってこられた。自らが閉じているときには感じられなかった。長らくそういう時間がなかったことに、あとから気づいたりした。