生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

ぼうけんの記録(大宮編)

先週末、遠方に住む友人と大宮観光に出かけた。友人と会うのは3年以上ぶりである。コロナ禍に入ってからはまったく会えていなかったことも、コロナ禍自体が3年経過していることにも、驚いてしまった。この3年、何やってたの? 自分でもよくわからない。一箇所に留まって整理し続けていたような気はする。

それはともかく、友人と大宮である。大宮には若いころに何度か来たことがあるが居酒屋で飲むばかりで、ちゃんと観光するのははじめてだ。大宮氷川神社の参道にはケヤキが植えられていて、緑が大変きれいだった。神社の奥には大きな公園が広がっていて、池や、サッカー場や、小さな動物園などがある。大宮にはサッカーのチームがあるらしく、行った日はちょうど試合だったようで、サポーターのおじさんたちが、公園の売店でお酒などを飲みながら騒いでいた。試合の前にサポーター同士集まって、お酒を飲みつつ話して、時間がきたら試合を見て、きっと試合のあともああだこうだとやるのかなと思ったら、うらやましくなってしまった。そんなの間違いなく楽しい。

わたしと友人はそんなおじさんたちやピクニックをしている親子連れを横目に、動物園を周って、気まぐれに動いていた飛行塔に乗るなどして過ごした。年甲斐もなくいいのかなあ、とつぶやいたら、友人が、それを言われるとわたしもつらいです! と笑っていた。昭和の頃からそのままの飛行塔に乗る経験なんてなかなかないだろう。飛行塔のゆったりとした感じが、穏やかで大変よかった。絶叫マシーンにはもう乗れないけど、小さな飛行塔くらいなら今後も乗れそうな気がする。帰りにはしっかりお団子も食べた。

こういうゆるやかな遊びを友人とするのがわたしはとても好きで、この予定が決まってからすごく楽しみにしていた。「遠足ぽいし、小銭を持っておやつを買いにいきたいなあ」などと考えているとき、自分が「やりたい」と思うことの多くはこういった手の中におさまるもので、既にやったことがあることでもあり、ただそれを「叱られずにやりたい」、と思っていることに気づいたりもして、なんとなくそういう……なんだろうな、怯えてきた部分があることを一つずつわかって、楽になっていくのは毎回、不思議な体験だなと思う。