生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

見あげた空はぽっかりとして

 

歌集 うはの空

歌集 うはの空

 

年始から西橋美保さんの『うはの空』を少しずつ読み進めていた。

気に入った歌、気になった歌はぽつぽつツイートしていたのだけれど、最後までたどり着いたとき、ああ終わりだ…、と思ったのだった。うんざりでも、晴れ晴れしくでもなく、終わるべくして終わる、というかんじ。過不足のない、誠実な歌集だった。

 

つくしき挽歌を詠まざるわたくしが投げし薄墨いろの夏薔薇
虫かごのなかで羽化せし姫ぎみの髪のすらりとながき触角
なべて貴種は流離するもの「堕天使」とよばれし星は朝な夕なに
ゆるやかにほうたる息づくほうたるの息に息づき苦しくなりぬ
映り込んだ月を盥でざぶざぶと洗つてさつぱりきれいな月だ
すこしづつ自分を切り売りすることを労働と呼び買ひ戻せない
風葬もよきかなはるか百合しろく向き向きに咲く髑髏を抱へ

(『うはの空』西橋美保)

 

物語のような歌に織り交ざっていく生活と、生活にあらわれる外からの暴力。
生きながらえるための逃亡の末に訪れる暴力の終わりのはじまり。その経過をたんたんと『うはの空』は描いている。

暴力の加害者が消えたからといって痛みや傷が簡単に癒えるわけではないし、過去がなかったことになるわけでもない。この歌集に描かれている経過は、外から見る「整頓」ではなく、「美化」でもなく、安易な「許し」でもない。言葉は意味とともにイメージをつれてくる。それは常に実際よりも大きかったり小さかったりする。その差異をおもしろく感じることもあるけれど、この歌集のように、目の前の在りようを、主体の感情を丁寧に捉えようとする言葉に出会うとき、しみじみと感動してしまう。

読み進めた先。そこに小さな呼吸のような一首が立っている。その一首にたどり着く、読み終える間際、ああ、と息をつかずにはいられない。しみじみ、というのがふさわしい、静かな胸のふるえがそこにある。