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雑多な日記

きっとずっとしない約束

 ルームシェアをはじめて4年半になる。

 はじめは4人、ひととき5人になり、さまざまな巡り合わせののち3人に落ち着き、今に至っている。古いマンションだが広さがあるので、みんなで過ごす楽しみとひとりで過ごす時間を行き来しつつ、そこそこ穏やかに暮らしている。

 わたしたち3人は恋人同士ではないし、パートナーシップを結んでいる関係とも違う。友達といえば友達だけど、暮らし始めてから知り合っていることもあり、学校などで出会った友達とも違うように感じる。だらしないところを見る/見られる関係を築いているという意味では、のんきにいえば「家族」のような――と書いてはみるものの、実際にはただのシェアメイトであり、それでよかった、とも感じている。

 「家族」ではないからこそ、「家族」という共同体がときに生んでしまう暴力的な側面から逃れることができるのでは、ということを思ったりもするけれど、今回その話は置いておく。

 そう、「だれと生きる?」、だ。

 わたしはだれかと共に歩むのならば約束が必要だろうとずっと思ってきた。契約、と言い換えてもいい。そういうものがあってはじめてだれかとの間の「ずっと」は担保されるのだろうと思ってきてしまった。ずいぶんとステレオタイプな見方だし、強い呪いだったと思う。

 だれと生きるかという問いをわたしも繰り返しながらここまできたけれど、最近、妙な絶望を抱くわけでも、斜に構えるのでもなく、きっとわたしは誰ともひとつの約束を結ばずに生きていくのだろうなあ、と思っている。

 いまが穏やかであっても、生きている時間のなかに「ずっと」は存在せず、ルームシェアを解消してみんなが分かれて暮らす日はくる。ルームシェアとはそういうものだし、いま住んでいる部屋も維持できなくなったら解消することになる。そんな不安定さのうえにあってなお、いまの生活があることがわたしをずいぶんと助けてくれている。確固たる約束ができないわたしは、手放された風船のように、いつ割れるとも、しぼむともしれない、心細い気持ちでいつづけなければならないのだと思っていたから。共同生活を営むうえで自分ひとりだったら買ってなかったであろうお風呂を洗うための電動ブラシとかを眺めているとそんなことを思う。

 「(これから先)だれと(恋をしたり結婚して)生きる?」、という問いからはわたしは零れ落ちていくにんげんで、でも「(ひとときを)だれと(楽しく)生きる?」、だったらきっと答えられる。

 ずっとという約束は手に入らないかもしれない。でもわたしたちは、約束しなくても、ずっと一緒に暮らさなくても、ひとときの時間を交換しながら生きていくことはできるんじゃないか。そして、それはけっこうゆかいで、ハッピーなことなんじゃないか、なんてことをぼんやりと思う。

2017年総括

すっかり今年は総括が12月に入ってからとなってしまった。来年のことまだぜんぜん見えておらず、1月のことなどすっかり忘れていて、なんというかなんというかです。

1月

仕事がつらかったことしか覚えていない。年末年始で8年使っていた眼鏡が半分に割れて、新しい眼鏡を買った。あと西橋美保さんの歌集を読んでいた模様。

2月~5月

次の仕事が決まり、消化試合的に毎日を過ごしていた。ツイッターに疲れて日記を再開。

NHK短歌テキストのジセダイタンカのコーナーに短歌を載せていただいた。

ゆきかえりゆらされているみずぎわでゆったりねむるヌーディストたち 平田有

6月

前職を辞めて、中旬から1週間弱、瀬戸内へ旅行。直島や豊島の美術館を巡ったりのんびりしていた。内藤礼さんの作品を観られたのがよかった。わたしはほとんどものをみていなくて、ものをじっと静かに見つめることを思い出す時間だった。

7月

会社を移る。毎日が新鮮で、使っている言葉が大きく違ってほとんどコミュニケーションがとれていないことに混乱しながら過ごしていた。同じ日本語をしゃべっているのに! 男性社会を濃縮したような会社だなと思いながら、そのことも少しつらく思っていた。

瀬戸夏子さんとトークイベントも確か7月だった。そうだ、このイベントまでに数か月瀬戸夏子さんとメール交換をしていたのだけれど、イベントの日までにすっかり話しつくしたような気持ちになって当日とつとつとしか話せなかったのだった。

あくまでも個別に。わたしとあなたは別々の人間だから。わたしたち、という幻想にとりこまれないようにしなければならない。

8月

詩客の砕氷船にエッセイを載せていただく。

blog.goo.ne.jp

引き続き職場に慣れることができず、苦しむ。

9月

女性による女性への無意識のバッシングに傷ついていた。わたしとわたしとわたし。きっと連帯はしていけると思いながら、その連帯からこぼれていく自分自身のことを考えていた。

10月

仕事がだいぶ慣れてきて、マイペースに動き始めたのがこのあたりから。11月に向けて本づくりもしていたけれど、今回はずいぶんと他のひとに作業を任せてしまった。わたしはそんなに大変なことはしていない。でも毎月、編集メンバーで会えていたのがすごくよかったなと振り返ると思う。

11月

なんとなくサイトを作ってしまう。11月一瞬だったなあ。仕事で日記を書き始めて、サイトでもぽつぽつ日記を書き始めた。やっぱブログのほうが便利かなあとも思いつつ。

砕氷船に出す勇気がなかった散文もブログに再録。

hinemosu.hatenablog.com

12月

自分の面倒を見ることを覚え始めて、なにか、ネイルをやってみたり、オイルを買ってみたりしている。なんだか不思議な感覚。

こうやって振り返ってみるとあまりにも覚えていないことが多いし、たぶん下半期は職場に慣れることに精一杯、というかんじだったんだと思う。心療内科通いを再開しつつ、ここ1か月くらいは日記を書くことで自分の気持ちを棚卸している。結婚への反発はこの1年でとんとなくなった。たぶんもう「しないんだろうなあ」みたいなところで落ち着いたのだと思う。

川柳をたんたんとひとりでやっているけれど、「わからないだろう」と言われるとき、「そのこころは」と聞きたくなってしまう。他者のことも、ジャンルのことも、だれだってわからないところからスタートするのではないのか。他者のことだけで言えば永遠にわからないだろうとも思う。わからない、というところからしか、はじめられない。

内側に入って内側の事情を知り慮ることはわたしにはできないだろう。ただ外部の無知な人間のひとりとしてできることもあるはずだと思う。どんどんあほとして動いていきたい。ジャンルのことは知らない。でもわたしはわたしで知っていることがある。そういう風に行き来することがわたしのやりたいことだろうとも思う。

 

本年も大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

みなさま良いお年を!

揺れうごくうつわとしてのわたし

 最近仕事で知り合ったひとに、いま一番興味を持っていることは何ですか、と訊ねられ、BLですね、と答えた。
 へえ、BL。BLってあのBLですか? 重ねて訊ねられたので、そうです、と答えた。
 わたしがBLを読み始めたのは中学生のころで、そこから20年ほど経っているのに、いまだにBLに一番興味があるってどれだけだよと思ってしまったのだけれど、「興味を持っていること」への答えがとっさにそれしか出てこなかった。
 BLってなんなんですか、どういうものなんですか。次々と質問を投げかけられて、内心おろおろしながら、一般的には男性同士の同性愛を描くジャンルといわれていて、とか、でも実際はそれだけじゃなくて、とか答えたのだけれど、結局BLをなぜ読み続けているのかは話せず仕舞いだった。
 BLをなぜ読んでいるのかを説明するのはとてもむつかしい。
 だからいつも外向きにわかりやすい説明を用意する。ジェンダーに関わることや、自分の生まれ育った環境にも所以があるような説明をする。そういう側面もゼロではない。でもそれは社会的な説明であり、問いかけた相手を安心させ、納得させる説明だとも思う。
 小学生のころ、わたしはガンダムWのデュオ・マクスウェルというキャラクターが好きだった。ランドセルに、地元のなんちゃってアニメイトみたいな店で買ったデュオのラミネートカードを忍ばせて学校に通うくらいには。その頃すでにキャラクター同士をカップリングして楽しんでいる知人もいたのだけれど、いかんせん感情が未分化だったわたしの「好き」はトトロとデュオを並列する段階にあった。デュオをどうこうしよう、あるいは、デュオとどうこうなりたい、といった感情の芽生えはなく、同級生たちがひそひそ声で話す恋のこともまだよくわからなかった。
 好きなひといる? だれ? 小学3、4年生くらいからそういう質問は飛び交うようになる。やだ、教えない、と答えるけれど、実際、好きな男の子がいたことがなかった。だけれど、あまりにそういう話題を投げかけられるゆえに、どうやら好きな男の子がいないとおかしいらしいぞと小学生のわたしは気付いた。そこからしばらく、いや、だいぶ長いこと、好きな男の子がいる、というポーズをとりつづける時期が続いたのだけれど、高校生になって、いつまでそうやって好きでもない男の子のことを好きだと言わなければならないんだろう、と思ったのだった。わたしはずっと目の前の女の子のほうが好きだったので。何故女の子なの、と問われてもわからない。いろんな理由をつけてみてもしっくりこない。結果として、女の子を好きになることが多かったこと、女の子と付き合っているという事実だけが積み重なっていった。
「男性とセックスしてないからじゃないの」と問われ、自分のありように疑問を持ったこともある。『そうか、じゃあ、男性とセックスをしてみて、いやだったなら、あるいはできなかったならわたしは「本当」にレズビアンなのかもしれない』などと愚かなことを考えたこともある。いまになればセクシュアリティに「本当」も「うそ」もないと思うし、セックス経験の有無で何かが変わることなんてないと思うのだけれど、そのころはまだ自分のありようが信じられなかった。だからこそ、その問いかけは罪深いと感じる。
 肉体も精神も、雑に扱えば扱っただけ損なわれるし、確実に減る。減らないなんて、うそだ。
 レズビアンなら百合を読まないの? と聞かれたこともある。
 百合やレズビアンが描かれているものを読んでこなかったわけではないし、志村貴子の『青い花』や、やまじえびねの『LOVE MY LIFE』、柳川麻衣さんの『ロータス』、少女革命ウテナユリ熊嵐などは大好きだ。だけれどBLのように貪って新しい作品を求めようとは思わずにここまで来てしまった。
 百合の物語に繋がることがわたしはすごくむつかしい。それはわたしが自分自身を「少女」からこぼれたおちたものだと思っているからだと思う。少女と表象される存在と、自分の要素がなにひとつ重ならない。数多の少女のなかに、わたしは含まれず、「少女らしさ」からこぼれていくもののなかにしか、わたしが繋がれるものはない。それも自分に外側からの要請としての「少女」を重ねたゆえの呪いかもしれない。
 だから『美少女戦士セーラームーン』の天王はるかや、『聖伝』の阿修羅、あるいは『火宵の月』の火月のような、作中で性を行き来する存在のほうがずっと、アクセスしやすかった。わたしにとってBLはその延長にある。
 BLに出てくる少年や、青年、男性の表象をかたどった人物たちはけっして男性にとどまっているわけではない。男性のうつわをとりながら、あるいは男性のうつわを変化させながら、ときに女性として存在する、その揺らぎをわたしは読んでいるのだ。読みながら、自分の存在を確かめている。それはキャラクターに感情移入するということではなく、揺らぎ、変化する存在がいることを確かめているのだ。
 世界に、あまたの揺らぎがあることを確かめられる。
 ただこれはわたしの理由であって、誰かの理由ではないだろう。わたしは、たまたまこうだった、というだけの。
 物語を必要として、読むことの理由。それは簡単に示されないし、わかりやすく説明できるものではないとも思う。それは自分が自分であることの一番、やわらかい部分とつながっている。自分のなかには男も女も棲んでいて、日常の中で揺れ動きながら存在している。こう感じるのは中2病の延長だろうか。ありとあらゆる立場のひとが、たとえば結婚して、子どもを産んで、世間的にはシスヘテロと呼ばれるかたちで生活するひとのなかにも、わたしのようにレズビアンとしての事実はあれどもレズビアンなんだろうかと揺れ動きながら存在しているひとのなかにも。前提としての自分の性の揺れはあるのではないだろうか。
 このことはなかなか理解されない。けれど、女性として生まれ、男性を好きになるのが普通とされてきた世界において(あるいは、男性に生まれ、女性を好きになるのが普通とされてきた世界で)必要に迫られて嘘をついてきたわたしは、いまも生きるのに嘘が必要なのだけれど、もし嘘をつかなくてもよくなったなら、ということを夢に見る。
 わたしが、わたしであることは、けして特別なことではないと思う。

花を好きなのを
黙ってたことも
名字が嫌いなことも
2年すれば忘れて

その3年後には
今気にしている
ようなことは
どうでもよくなる

…その5年後
16歳の自分が
大切なものを
ドブに捨ててきた
ことに気付く

(中略)

人類にあまねく
ふりかかる呪い

世界の決まり

ヤマシタトモコ『HER』case.3

なんとなく

Log

サイトを作ってしまったので置いておきます。

こっちもときどきまだ更新しますが、向こうの更新メインになっていくと思います。

駆け下りていく

たとえば恋愛。たとえば結婚。たとえば出産。たとえばキャリア。たとえば、たとえば、たとえば、いくつものあるであろうとあらゆるところで耳にする可能性。そういうものを選べるということは、たとえば選ばない、と選択できるということは、それだけで一段上に、みたいな考え方、という考え方でだれかが、いや自分を、しあわせにできるのかといったらできない、とわかれど、いろいろ遠い、と思うし、近づくための努力、とかもすてきだよすてきってわかるけど、わたしは全部の階段を駆け下りて行った先でも、いいよ、って言われたいし言いたくて。階段を駆け下りていく。駆け下りて駆け下りて駆け下りていく。それくらいはっきりと駆け下りて、ああもう自分のなかにも段がない、みたいな、そういう場所を見たいと思う。そしたらもう別の場所へ歩いていくだけだから。段もなにもないゆるやかな線の上をすこしずつからだをずらして。そういうことを考えていると、ふときっとみんなこういう不安の中にいるんだろう、みたいにも思う。わたしだけではなくて。

 

いまはただ降りてゆくことだけを考える。

 

いのちづなをよる

二次創作の存在を知ったのは12歳のときで、ようやく意味がわかるようになったのは19歳のときだった。中学高校で出会った友人たちは版権ものの二次創作をし続けていたし、わたしも隣で見てはいたものの、自分でやることはなかった。単純にできなかったのだと思う。ときどき詩や短い小説、こういう日記のようなものは書いていたけれども。息苦しさばかりあった思春期の、なんとか日々を生き抜くためのことばとして、息抜きのような、それこそ風船に針をさしてまわるような、行為としての詩を書いていた。誰のためでもない、自分のためだけに。

少し元気になって、精神的にも余裕がで始めた頃、版権ものの二次創作をはじめたのだった。そこでやっと受けや攻めの、ようは左右の意味が理解できたのもある。理解が遅いのは昔からだ。

二次創作を始めて、楽しいことばかりだったか、といえばそんなこともないけれど、キャラクターに頼りながら言葉を紡いでいくことは、自分にとっては大切な行為のひとつだった。そこで出会った友人が短歌を作り始めたこともあり、そうか、短歌って自分でも作れるんだ、と思ったのだった。全ては緩くつながっており、いまもそれは変わっていない。

わたしは漫画が好きで、小説はほぼ読まない子どもだった。読むようになったのは大人になってからだ。ずっと挙動不審なただひとりのオタク女子で、男子にはずいぶんいじめられた。学校はどちらかといえばつらかったからいまは大人になれてよかったと繰り返し思ってしまう。

わたしはオタクだ。でもそれだけのことだと思っている。

だからこそ、腐女子はなんでもBLにする、みたいな、そういう揶揄が、とくに同じ女性から出てくるとき、意味のわからないダメージを負うのだった。いっそひどくバカにされる方がマシで、無意識のなにか、なにかにはなかなかどうして勝てないと思う。悪気はないことが大半だから。でもあなたの悪気のない足はしっかりわたしの足を踏んでいて、そのことにはちょっと気づいてくれないかなあと思ったりはする。

女性の解放について語られるとき。そこにわたしはいるだろうか、と思ってしまうとき。ああ結局、入れてほしい、と言ったところで入れてもらえないのかもしれない、とも思うとき。わたしはひとつ自分のなかの糸を手繰り寄せる。わたししかわたしを救えないのだから、と思ってしまう。救いを他人任せにしたことがそもそもの誤りだった、みたいにも。実際には他者に救われることもあるし、あったよな、とも思うけど、少なくとも自分を救う自分の糸は太いほうがいいから、えーんやこらと縒ってみている。雨は降り続けている。

 

 

こえをとりもどす

転職してそろそろまる三カ月。ざわざわと自分も言葉も荒れていくなかで、今日やっとすこしマイペース、みたいな時間の使い方ができた。慣れない環境にいらいらバタバタし続けるのも終わりにできるかなあ。漢方もきちんと再開。すこし飲まなかっただけでどうしてあんなに悲観的なかんじに囚われてしまうのだろう。ホルモンてやつはむつかしい。

昨日文章を書いていて、なんというか、内容でなく文体が息が詰まって死にかけのようになっていて、ああよくないなと思った。日記を再開しては、続かず、再開しては、続かず、を繰り返している。思春期のころからずっと好きで息抜きに書き続けてきたのに、いつからぱったり書けなくなったんだろう。くだらないことでも書き留めておけばあとから読んで自分がおもしろいのにね。

最近は10danceの三巻が出てとても嬉しい。BLたんたんと読み続けているけれど、今年は豊作だったのですすめたい作品がたくさんある。

短歌のほうは未來(結社)の紀野恵さんの欄が気になってはいるけれども、毎月10首も出せる気がしないし、なんだかすこしだけ気後れしてしまう。それでもやってみたほうがいいかなあ。どうなんだろう。

 

原稿はちっとも進まない。1文字も書き進められずにいる。