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雑多な日記

迷子は続くよどこまでも

ツイッターだと気持ちの動くままに書いてしまうので、こちらにぼちぼち。

だいたい行動は何を得たいかというゴールを起点に逆算して決まるものだと思うのだけれど(ゴールがわからない状態で衝動だけがある場合もあることはあるけど)、わたしはいま何を得たいかがぜんぜんわからず、衝動もない状態にある。というのも、今朝「サマージャンボ当たらねえかなあ」「2億円くらい当たりたい」みたいな適当な会話をしたものの、実際2億円当たったところで特段やりたいことがないなあ、と思ってしまったのだ。

やりたいことはなんだっていいだろう。美味しいものが食べたいとか、すてきな家に住みたいとか、勉強したいとか、推しを追いかけたいとかなんだっていい、なんだっていいのだ。小さなことから大きなことまで。

でもいまは気軽な気持ちで「〇〇やりたいなー」とかそういうこともない。

何もやりたいと思えない、ということは自分の行動がまったくもって定まらないし、気持ちも動かない。鬱とも違うなあ、と思う。鬱と付き合って長いけれど、鬱のときはもっと「やりたくない」という気持ちが強い。いまはそういうことでもない。

自分の手に余るようなことが継続的に起こってきたことを思えばいまの状態って別に悪くないんだろう。日常にちょっとしたトラブルはあれど生活も仕事も困ってはいないし、ひどく傷ついて立ち上がれないようなこともない。本当にどうしようもない、どうしようもできないみたいな問題が手の中にないことが不思議すぎて、ぽかーんとしてしまう。らくなのか? いや、けっこうこういう状態ってむつかしい。つらい状態を抜け出すことが第一のこととしていままで過ごしてきてしまったから、わからないのだ。やりたいこと?と問われて、やりたい、こと?とオウム返しをするばかりで。いままでの選択に後悔はないけれど、なんというか、人生を楽しむ、ということもまた学習しなければできないのかもしれない。いまが平和だとしても、別に絶対じゃないから。これがずっと続くわけじゃないから、とも思ってしまったりもするし。慣れていないだけだね。

少なくとも鬱にならずに、倒れるようなこともなく毎日きちんと働けたら。本当はここで、次のステップを考えられたらいいことはわかるんだけど、まだわからないなあ、と思う。

生活を保てることも、深く眠れることもまた喜びだと思う。カラカラのところからやっとここまできた、みたいな気持ちはあるから、いいのかな。いいのかもしれないな。ここまできたことは褒めてあげたいとも思ったりもする。またこれが溢れていったら、不満もでてきて、なにくそってなるのかもしれない。

ひとまずこのだらだらしたどうしようもなさ、みたいなものを満喫したいとは思う。あとこうやってとりとめなく書いていると少しは上向くから、しばらく自分のために日記はつづけたい。

(フィクションのなかの)悪に生かされている

先日「BAADY」を観たあと、バンドの話などをしていて、久しぶりにDir en greyの最新曲のPVを見た。相変わらずえぐさが極まっていた。Youtube用に表現規制していた映像であっても十分すぎるほどで、あのもやの向こうでは人間の体が松かさのように開かれていたのだと思う(実際見る勇気はなかった)。

改めてみながら、ああもうDirはずっと、というか歌詞を書いているのは京くんだから、京くんは、悪を悪として描き続けているひとなのだということを思った。美化するでもなく、ただただおぞましいものとしてあるもの。救いはなく、その悪を放ったあとの人間は悪を引き受けるほかない、といったような。えぐさをさらに煮詰めたような映像は、曲は、歌は、ほとんど吐き気とともにある。

10数年前に彼らを追っていたとき、わたしは、その悪の描き方に信頼をおいていたのだ、と思った。どうしてあんなに惹かれていたのか、当時は言語化できていなかった。実際熱に浮かされるようにして追いかけていた部分もあるだろう。

日常における小さな悪は隠されており、繰り返し繰り返し思春期のわたしを傷つけてきたけれど、明らかにされた悪はわたしを傷つけなかった。わたしを傷つけるのはいつだって現実にある、隠された悪であり、ぱっと見「良いこと」とされていたものだった。

再び「BADDY」に戻るけれど、見ている最中、ここで描かれる悪は「良いこと」から零れ落ちたものではないのか、とどうしても思ってしまっていた。あいまいなところで漂うものを悪だと定めるのは「良いこと」ではないのか。そう思えばみんながひとつの天国に運ばれていったこともわからなくない。良い子でいても、悪いことをしても、みんな天国へ行く。ただ社会を潔癖に保つためにさまざまなものが見えなくされているだけで。

グッディが怒りを取り戻す場面。怒りを発露することさえ「悪」とされていた世界で、「生きている!」と叫びながら脚を蹴り上げる、あの美しい怒りに胸が奮えないことがあるだろうか。怒りもまた隠され続けてきた感情だった。

宝塚とDirではぜんぜん重なる部分がないわけだけれど、唯一悪を描く、というところを媒介に考え続けている。創作物でしか発露できないもの。そういうものの存在を感じずにはいられない。

もちろんこれは社会のありようとセットだから、手放しに暴力的な描写や、あるいは悪を賛美するようなものを、受け取る側の人間として持ち上げてはならないことはわかるし、わたしはゾーニングは必要だと思っている立場の人間だけど、現実の悪の存在が露わにされないのなら、創作物できちんと悪を悪として、示す必要はある、というより、そういうものを見たいと思う。はじき出されてきた感覚のあるひとりとして、創作物の中の悪により生かされてきたものとして。

社会がもっと懐深くあったなら。失敗しても立ち上がれる土壌があれば、と思うけれど、それについてはまた今度。

対岸へ渡る、通販はじめました

本を作りました

おひさしぶりです。

出す出すといいながら数年経ってしまったのですが、短歌と川柳をまとめた本を作りました。2013年から2017年までの作品が入っています。 

bltanka.booth.pm

二次創作で個人誌は出してきたわけですが、一次創作で、かつ詩歌の個人誌を出すのは今回はじめてで。イベントが終わるまではそわそわざわざわ……イベント参加も自分ひとりの本づくりもいつまでたっても慣れないなあ!

 

ひとりで本を作ってみて

詩歌に関わりはじめてからひとりで本を作る機会は減っていたのですが、今回作ってみて改めて編集と書き手では自分の視点の持ち方が違う、と思ったりしました。もしかしたら編集として立つときに、わたしは寄稿いただく方の作品を預かっているという意識が足りなかったかもしれない、みたいな気持ちにもなりました。もっともっと大切に扱わなければならなかったかもしれない、相手の分身ともいえる作品なのだから。

本を出したことで東京以外の場所にも本をもっていきたいなという気持ちが出てきて、来年は新刊を引っ提げて全国各地の文学フリマに出たいなと思ったりしています。

 

なにはともあれ

元気にしています。最近日記を書いていなかったので日記の書き方がわからなくなっているところがあるんですが、またじわじわ書きます。それでは。

ハロかな

週末がたのしい。平日もつらいわけではないけれど、週末の、この夜更かしがたのしい。お酒も飲まず、こたつにはいって、えーもー住み始めて何年? この歌って何年前の歌? えーうっそ、もうそんなにたつの? いま何歳? まじかー出会ったときはこんなだったのにねー、ってわたしもかーまだ20代だったよねー、とかいうエトセトラエトセトラ。眠りを忘れた鳥みたいなおしゃべりにうめつくされた真夜中。

 

今日は宇宙の話を聞いてきた。宇宙開発は軍事と裏表でありつつも、それでも夢があるよなあと思う。

今日見たもので、一番、あれ、わたしの理想がここに…と思ったもの。ハロかな? 


国際宇宙ステーション・きぼう船内ドローン「Int-Ball(イントボール)」の映像初公開

きっとずっとしない約束

 ルームシェアをはじめて4年半になる。

 はじめは4人、ひととき5人になり、さまざまな巡り合わせののち3人に落ち着き、今に至っている。古いマンションだが広さがあるので、みんなで過ごす楽しみとひとりで過ごす時間を行き来しつつ、そこそこ穏やかに暮らしている。

 わたしたち3人は恋人同士ではないし、パートナーシップを結んでいる関係とも違う。友達といえば友達だけど、暮らし始めてから知り合っていることもあり、学校などで出会った友達とも違うように感じる。だらしないところを見る/見られる関係を築いているという意味では、のんきにいえば「家族」のような――と書いてはみるものの、実際にはただのシェアメイトであり、それでよかった、とも感じている。

 「家族」ではないからこそ、「家族」という共同体がときに生んでしまう暴力的な側面から逃れることができるのでは、ということを思ったりもするけれど、今回その話は置いておく。

 そう、「だれと生きる?」、だ。

 わたしはだれかと共に歩むのならば約束が必要だろうとずっと思ってきた。契約、と言い換えてもいい。そういうものがあってはじめてだれかとの間の「ずっと」は担保されるのだろうと思ってきてしまった。ずいぶんとステレオタイプな見方だし、強い呪いだったと思う。

 だれと生きるかという問いをわたしも繰り返しながらここまできたけれど、最近、妙な絶望を抱くわけでも、斜に構えるのでもなく、きっとわたしは誰ともひとつの約束を結ばずに生きていくのだろうなあ、と思っている。

 いまが穏やかであっても、生きている時間のなかに「ずっと」は存在せず、ルームシェアを解消してみんなが分かれて暮らす日はくる。ルームシェアとはそういうものだし、いま住んでいる部屋も維持できなくなったら解消することになる。そんな不安定さのうえにあってなお、いまの生活があることがわたしをずいぶんと助けてくれている。確固たる約束ができないわたしは、手放された風船のように、いつ割れるとも、しぼむともしれない、心細い気持ちでいつづけなければならないのだと思っていたから。共同生活を営むうえで自分ひとりだったら買ってなかったであろうお風呂を洗うための電動ブラシとかを眺めているとそんなことを思う。

 「(これから先)だれと(恋をしたり結婚して)生きる?」、という問いからはわたしは零れ落ちていくにんげんで、でも「(ひとときを)だれと(楽しく)生きる?」、だったらきっと答えられる。

 ずっとという約束は手に入らないかもしれない。でもわたしたちは、約束しなくても、ずっと一緒に暮らさなくても、ひとときの時間を交換しながら生きていくことはできるんじゃないか。そして、それはけっこうゆかいで、ハッピーなことなんじゃないか、なんてことをぼんやりと思う。

2017年総括

すっかり今年は総括が12月に入ってからとなってしまった。来年のことまだぜんぜん見えておらず、1月のことなどすっかり忘れていて、なんというかなんというかです。

1月

仕事がつらかったことしか覚えていない。年末年始で8年使っていた眼鏡が半分に割れて、新しい眼鏡を買った。あと西橋美保さんの歌集を読んでいた模様。

2月~5月

次の仕事が決まり、消化試合的に毎日を過ごしていた。ツイッターに疲れて日記を再開。

NHK短歌テキストのジセダイタンカのコーナーに短歌を載せていただいた。

ゆきかえりゆらされているみずぎわでゆったりねむるヌーディストたち 平田有

6月

前職を辞めて、中旬から1週間弱、瀬戸内へ旅行。直島や豊島の美術館を巡ったりのんびりしていた。内藤礼さんの作品を観られたのがよかった。わたしはほとんどものをみていなくて、ものをじっと静かに見つめることを思い出す時間だった。

7月

会社を移る。毎日が新鮮で、使っている言葉が大きく違ってほとんどコミュニケーションがとれていないことに混乱しながら過ごしていた。同じ日本語をしゃべっているのに! 男性社会を目の当たりにして少しつらく思っていた。

瀬戸夏子さんとトークイベントも確か7月だった。そうだ、このイベントまでに数か月瀬戸夏子さんとメール交換をしていたのだけれど、イベントの日までにすっかり話しつくしたような気持ちになって当日とつとつとしか話せなかったのだった。

あくまでも個別に。わたしとあなたは別々の人間だから。わたしたち、という幻想にとりこまれないようにしなければならない。

8月

詩客の砕氷船にエッセイを載せていただく。

blog.goo.ne.jp

引き続き職場に慣れることができず、苦しむ。

9月

女性による女性への無意識のバッシングに傷ついていた。わたしとわたしとわたし。きっと連帯はしていけると思いながら、その連帯からこぼれていく自分自身のことを考えていた。

10月

仕事がだいぶ慣れてきて、マイペースに動き始めたのがこのあたりから。11月に向けて本づくりもしていたけれど、今回はずいぶんと他のひとに作業を任せてしまった。わたしはそんなに大変なことはしていない。でも毎月、編集メンバーで会えていたのがすごくよかったなと振り返ると思う。

11月

なんとなくサイトを作ってしまう。11月一瞬だったなあ。仕事で日記を書き始めて、サイトでもぽつぽつ日記を書き始めた。やっぱブログのほうが便利かなあとも思いつつ。

砕氷船に出す勇気がなかった散文もブログに再録。

hinemosu.hatenablog.com

12月

自分の面倒を見ることを覚え始めて、なにか、ネイルをやってみたり、オイルを買ってみたりしている。なんだか不思議な感覚。

こうやって振り返ってみるとあまりにも覚えていないことが多いし、たぶん下半期は職場に慣れることに精一杯、というかんじだったんだと思う。心療内科通いを再開しつつ、ここ1か月くらいは日記を書くことで自分の気持ちを棚卸している。結婚への反発はこの1年でとんとなくなった。たぶんもう「しないんだろうなあ」みたいなところで落ち着いたのだと思う。

川柳をたんたんとひとりでやっているけれど、「わからないだろう」と言われるとき、「そのこころは」と聞きたくなってしまう。他者のことも、ジャンルのことも、だれだってわからないところからスタートするのではないのか。他者のことだけで言えば永遠にわからないだろうとも思う。わからない、というところからしか、はじめられない。

内側に入って内側の事情を知り慮ることはわたしにはできないだろう。ただ外部の無知な人間のひとりとしてできることもあるはずだと思う。どんどんあほとして動いていきたい。ジャンルのことは知らない。でもわたしはわたしで知っていることがある。そういう風に行き来することがわたしのやりたいことだろうとも思う。

 

本年も大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

みなさま良いお年を!

揺れうごくうつわとしてのわたし

 最近仕事で知り合ったひとに、いま一番興味を持っていることは何ですか、と訊ねられ、BLですね、と答えた。
 へえ、BL。BLってあのBLですか? 重ねて訊ねられたので、そうです、と答えた。
 わたしがBLを読み始めたのは中学生のころで、そこから20年ほど経っているのに、いまだにBLに一番興味があるってどれだけだよと思ってしまったのだけれど、「興味を持っていること」への答えがとっさにそれしか出てこなかった。
 BLってなんなんですか、どういうものなんですか。次々と質問を投げかけられて、内心おろおろしながら、一般的には男性同士の同性愛を描くジャンルといわれていて、とか、でも実際はそれだけじゃなくて、とか答えたのだけれど、結局BLをなぜ読み続けているのかは話せず仕舞いだった。
 BLをなぜ読んでいるのかを説明するのはとてもむつかしい。
 だからいつも外向きにわかりやすい説明を用意する。ジェンダーに関わることや、自分の生まれ育った環境にも所以があるような説明をする。そういう側面もゼロではない。でもそれは社会的な説明であり、問いかけた相手を安心させ、納得させる説明だとも思う。
 小学生のころ、わたしはガンダムWのデュオ・マクスウェルというキャラクターが好きだった。ランドセルに、地元のなんちゃってアニメイトみたいな店で買ったデュオのラミネートカードを忍ばせて学校に通うくらいには。その頃すでにキャラクター同士をカップリングして楽しんでいる知人もいたのだけれど、いかんせん感情が未分化だったわたしの「好き」はトトロとデュオを並列する段階にあった。デュオをどうこうしよう、あるいは、デュオとどうこうなりたい、といった感情の芽生えはなく、同級生たちがひそひそ声で話す恋のこともまだよくわからなかった。
 好きなひといる? だれ? 小学3、4年生くらいからそういう質問は飛び交うようになる。やだ、教えない、と答えるけれど、実際、好きな男の子がいたことがなかった。だけれど、あまりにそういう話題を投げかけられるゆえに、どうやら好きな男の子がいないとおかしいらしいぞと小学生のわたしは気付いた。そこからしばらく、いや、だいぶ長いこと、好きな男の子がいる、というポーズをとりつづける時期が続いたのだけれど、高校生になって、いつまでそうやって好きでもない男の子のことを好きだと言わなければならないんだろう、と思ったのだった。わたしはずっと目の前の女の子のほうが好きだったので。何故女の子なの、と問われてもわからない。いろんな理由をつけてみてもしっくりこない。結果として、女の子を好きになることが多かったこと、女の子と付き合っているという事実だけが積み重なっていった。
「男性とセックスしてないからじゃないの」と問われ、自分のありように疑問を持ったこともある。『そうか、じゃあ、男性とセックスをしてみて、いやだったなら、あるいはできなかったならわたしは「本当」にレズビアンなのかもしれない』などと愚かなことを考えたこともある。いまになればセクシュアリティに「本当」も「うそ」もないと思うし、セックス経験の有無で何かが変わることなんてないと思うのだけれど、そのころはまだ自分のありようが信じられなかった。だからこそ、その問いかけは罪深いと感じる。
 肉体も精神も、雑に扱えば扱っただけ損なわれるし、確実に減る。減らないなんて、うそだ。
 レズビアンなら百合を読まないの? と聞かれたこともある。
 百合やレズビアンが描かれているものを読んでこなかったわけではないし、志村貴子の『青い花』や、やまじえびねの『LOVE MY LIFE』、柳川麻衣さんの『ロータス』、少女革命ウテナユリ熊嵐などは大好きだ。だけれどBLのように貪って新しい作品を求めようとは思わずにここまで来てしまった。
 百合の物語に繋がることがわたしはすごくむつかしい。それはわたしが自分自身を「少女」からこぼれたおちたものだと思っているからだと思う。少女と表象される存在と、自分の要素がなにひとつ重ならない。数多の少女のなかに、わたしは含まれず、「少女らしさ」からこぼれていくもののなかにしか、わたしが繋がれるものはない。それも自分に外側からの要請としての「少女」を重ねたゆえの呪いかもしれない。
 だから『美少女戦士セーラームーン』の天王はるかや、『聖伝』の阿修羅、あるいは『火宵の月』の火月のような、作中で性を行き来する存在のほうがずっと、アクセスしやすかった。わたしにとってBLはその延長にある。
 BLに出てくる少年や、青年、男性の表象をかたどった人物たちはけっして男性にとどまっているわけではない。男性のうつわをとりながら、あるいは男性のうつわを変化させながら、ときに女性として存在する、その揺らぎをわたしは読んでいるのだ。読みながら、自分の存在を確かめている。それはキャラクターに感情移入するということではなく、揺らぎ、変化する存在がいることを確かめているのだ。
 世界に、あまたの揺らぎがあることを確かめられる。
 ただこれはわたしの理由であって、誰かの理由ではないだろう。わたしは、たまたまこうだった、というだけの。
 物語を必要として、読むことの理由。それは簡単に示されないし、わかりやすく説明できるものではないとも思う。それは自分が自分であることの一番、やわらかい部分とつながっている。自分のなかには男も女も棲んでいて、日常の中で揺れ動きながら存在している。こう感じるのは中2病の延長だろうか。ありとあらゆる立場のひとが、たとえば結婚して、子どもを産んで、世間的にはシスヘテロと呼ばれるかたちで生活するひとのなかにも、わたしのようにレズビアンとしての事実はあれどもレズビアンなんだろうかと揺れ動きながら存在しているひとのなかにも。前提としての自分の性の揺れはあるのではないだろうか。
 このことはなかなか理解されない。けれど、女性として生まれ、男性を好きになるのが普通とされてきた世界において(あるいは、男性に生まれ、女性を好きになるのが普通とされてきた世界で)必要に迫られて嘘をついてきたわたしは、いまも生きるのに嘘が必要なのだけれど、もし嘘をつかなくてもよくなったなら、ということを夢に見る。
 わたしが、わたしであることは、けして特別なことではないと思う。

花を好きなのを
黙ってたことも
名字が嫌いなことも
2年すれば忘れて

その3年後には
今気にしている
ようなことは
どうでもよくなる

…その5年後
16歳の自分が
大切なものを
ドブに捨ててきた
ことに気付く

(中略)

人類にあまねく
ふりかかる呪い

世界の決まり

ヤマシタトモコ『HER』case.3