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雑多な日記

活動記録

2017

2017/02/20
NHK短歌』 2017年3月号「ジセダイタンカ」のコーナーに短歌7首「きみにちいさく話すこと」寄稿。

NHK 短歌 2017年3月号 [雑誌] (NHKテキスト)

2016

2016/11/23 東京文フリ
『アニポエ vol.4』杉中昌樹さん発行の詩誌。
おそ松さん」をテーマにした川柳10句「靴下の作法(銀河系Ver.)」を寄稿。

2016/11/233 東京文フリ
『YAMINABE Vol.1』編集発行。川柳10句「針葉樹林の怪獣」掲載。

2016/05
おそ松短歌アンソロジー『UtaMatsu』に松短歌7首とエッセイを寄稿。

~2015

思い出したら書きます

見あげた空はぽっかりとして

 

歌集 うはの空

歌集 うはの空

 

年始から西橋美保さんの『うはの空』を少しずつ読み進めていた。

気に入った歌、気になった歌はぽつぽつツイートしていたのだけれど、最後までたどり着いたとき、ああ終わりだ…、と思ったのだった。うんざりでも、晴れ晴れしくでもなく、終わるべくして終わる、というかんじ。過不足のない、誠実な歌集だった。

 

つくしき挽歌を詠まざるわたくしが投げし薄墨いろの夏薔薇
虫かごのなかで羽化せし姫ぎみの髪のすらりとながき触角
なべて貴種は流離するもの「堕天使」とよばれし星は朝な夕なに
ゆるやかにほうたる息づくほうたるの息に息づき苦しくなりぬ
映り込んだ月を盥でざぶざぶと洗つてさつぱりきれいな月だ
すこしづつ自分を切り売りすることを労働と呼び買ひ戻せない
風葬もよきかなはるか百合しろく向き向きに咲く髑髏を抱へ

(『うはの空』西橋美保)

 

物語のような歌に織り交ざっていく生活と、生活にあらわれる外からの暴力。
生きながらえるための逃亡の末に訪れる暴力の終わりのはじまり。その経過をたんたんと『うはの空』は描いている。

暴力の加害者が消えたからといって痛みや傷が簡単に癒えるわけではないし、過去がなかったことになるわけでもない。この歌集に描かれている経過は、外から見る「整頓」ではなく、「美化」でもなく、安易な「許し」でもない。言葉は意味とともにイメージをつれてくる。それは常に実際よりも大きかったり小さかったりする。その差異をおもしろく感じることもあるけれど、この歌集のように、目の前の在りようを、主体の感情を丁寧に捉えようとする言葉に出会うとき、しみじみと感動してしまう。

読み進めた先。そこに小さな呼吸のような一首が立っている。その一首にたどり着く、読み終える間際、ああ、と息をつかずにはいられない。しみじみ、というのがふさわしい、静かな胸のふるえがそこにある。

 

がんばらねば、を過ぎて

あけましておめでとうございます。

年末に引いた風邪がなかなか治らず正月いっぱい寝尽くしてさきほど東京に帰ってきました。新幹線はとても混んでいたけれどもひかりに乗れたのでさほど大変ではなかった。帰る道すがらだんだん悲しくなってきて、いま東京駅で眼鏡を新しく作っているのだけれど、ああ、疲れがとれてくるとやっと悲しいと思ったりするのだなと思ったりしていました。理由もなく、いや、たぶん理由はすべて去年過ぎ去ったことで、過ぎ去ったことをいまやっと悲しく思っているのかもしれない。その場で悲しいと言えないことというのは悲しむ前にがんばらなければならないので、ただただひたすらにがんばる、頑張り疲れて倒れ、それが癒えはじめると、ああ悲しいなと思える。

だからきちんと休めたんだなと思いつつ、年始早々真っ二つになった眼鏡の代わりの眼鏡を待っています。あの眼鏡も8年くらい使っていたので寿命だったのでしょう。新年になりましたので今年もゆっくりエンジンかけていきたいと思います。

本年もどうぞよろしく。頑張り過ぎず、やっていきたいと思います。

2016年ふりかえり

大厄らしい一年
前半も後半もどたばたで、ああ、これがうわさの大厄・・・(ゴクリ)みたいな派手さがありました。いろんな事件が起こり、それを収束させることで手一杯でした。とくに身内のどたばたを解決せねばならないというのにはほとほと困り、しみじみお金を稼いでいてよかったと思わざるをえなかった。ひとの心の問題以外はお金があればたいていなんとかなると思ってしまう、と書けてしまうこともまた過ぎ去りし、というかんじで、過ぎてしまったことはもう2016年に全部置いて、2017年へ行きたいと思う。

 

そのわりに
いろいろなことに挑戦もさせてもらえた一年でしたね・・・みなさま本当にありがとうございました!

- 2016/03 十カラアンソロジー『十カラ!!!』ごはんさんと共同主催
- 2016/05 友人のアンソロのお手伝い(200

ページ越えの本を組むのははじめてやりました)
- 2016/05 おそ松短歌アンソロジー『UtaMatsu』に松短歌7首とエッセイを寄稿
- 2016/11 ごった煮文藝誌『YAMINABE Vol.1』主催・川柳連作を掲載
- 2016/11 『アニポエ Vol.4』川柳連作を寄稿
- 2016/12 『このBLがやばい! 2017年度版』選者で参加 レビュー記事もいくつか寄稿

 

さて、2017年
最近短歌のことが気になっています。今までもやっていたじゃないですか、といわれればそうなんですが、なんでわたしは短歌を作るんだろうなあ、と思って。なんでなんだろう。短歌やことばとの、今後のお付き合いをぼちぼち考えていきたいなと思ったりしています。

いま風邪を引いてるんですが、それでも胃腸炎にも大腸炎にも腎盂腎炎にも罹らず過ごせているので、優秀な年末です。そろそろお酒も飲みたいなあ。みなさま良いお年をお迎えください!

思い出にできるのは

去年の12月、まだ若かった友人が亡くなり、今日やっとお墓参りすることができた。広大な霊園の一角。誰かがきたばかりなのか、まだ枯れていないお花がそこにあり、誰かの痕跡があることに勝手な感想ではあるけれど、よかったと思った。

その友人とは半年ほど一緒に暮らした。いろんな事情があってそうなったのだけれど、今になればそれがよかったのか悪かったのかはわからない。こないだも書いたけれどできることは本当に多くないんだと実感せずにはいられない時間だった。

お墓の前に立っても、もういないのだ、という実感は湧いてこず、まだどこかで生きているような気がするし、思い出にはまだできないなと思う。思い出にできるのは過ぎ去ったことだけで、突然途切れてしまった時間についてはそこで止まってしまう。どこかで元気だといい、と祈ることもできない。

それでも、いま、いまこの時間がその友人にとってつらくないといいな、なんてことは思ってしまう。それはわたしの自己満足でしかないのだけど、それでも。まだそばにいるとき、すごく苦しんでいたから、そういう苦しみがなくなっていたらいいなと思ってしまう。

本当はたくさん悲しんで、折り合いをつけたり、そのひとを見送る過程が必要なのかもしれないけれど、まだそういう感じにはならない。

 

ただ今日が晴れていて、暖かくて、それはよかった。朝の霊園は静かで落ち葉に色づいてとてもきれいだった。

 

メガネが見つからない

さっきからメガネを探しているけれどみつからないので仕方なくコンタクトレンズをつけた。わたしは裸眼で両目とも0.02ほどであり、手のひらを顔の前数センチ程度にまで近づけないとしわが見えない。持っているメガネの矯正視力は0.5~0.6程度、コンタクトだと1.0くらいだろうか。仕事でコンタクトなのはパソコンを使うときにはそっちのほうが疲れないからで(メガネの重みってけっこう疲れるのだ)、家でメガネなのは、コンタクトの世界は鮮明すぎて逆につかれるからである。ちょっとぼんやりしていて、外せばすぐベッドに入れて、目もかわかない、メガネは良いことしかない。そのメガネがさっきから見つからない。

昨日性描写を伴わないエロスについて話していたけれど、結局わたしはファンタジーとしてのエロスしか安心して消費できないし、生身の人間をイメージできるもの、あるいはイメージしてしまうものについては楽しめないのだなと思ったりした。それは消費できるひとが云々という話ではなく、ただわたしは、という話である。このあたりの加減はひとによって異なるので、その違い自体はそっとしておきたいのだけど、こういう話をするときいつもついしゃべりすぎてしまって、あとになって「ああ…」と後悔することが多い。しゃべりすぎるとき、何か大事なものが損なわれたように思ったりする。なんにも損なわれていないよだいじょうぶ。そうは言うけれども、わたしの足は確かに誰かの足を踏んでいたな、と思ってしまう。足でなく、背中かもしれない。

ひどいうつでもなく、ただ怠けているだけであることはわかってはいても、最近ふと、生きているのがつらいな、と思う。積極的に死にたいわけでも、なんでもないので、わたしは明日も生きるのだろうが、なんで生きているんだろうな、と思ってしまう。なんのために。なんのために? なんのために、と考え出すと絶対もう死にたくなるやつだな、と思う。みんななんのためにとか考えていないんだろうか。たとえば大事なひとがいたなら死にたくならないんだろうか。あるいは守るべき存在があったなら? ひとでもいい。仕事でもいい。なにか、楽しみでもいい。そんなこともないのか。ひとりで、ひとりの、命を支えるということが、こんなにもむつかしい。自分の仕事の対価としてもらったお金で何かを買ったりすればいいのかな。そうしたらもう少し違うんだろうか。

すてきなものを身に着けるという発想がない。わたしは気が狂ったようにBLを収集して読むけれども最近それも電子書籍に切り替えたので、なんとなくスピードは落ちている。電子書籍は紙書籍とは同時発売でないことが多いので。あと、紙でしか出ない本もあるので(もちろんその逆もあるが)。何故BLを読むのか、それももう最近あいまいだ。ただそこに夢を見ている気持ちだけはわかるのだけど、絶対に手に入らないものだな、ということが最近わかってしまって、夢を食べるのにもつかれたな、と思う。食べても食べてもおなかはいっぱいにならない。

ひとに会えば元気だ。会うのも好きだし、ひとのことも好きだし、たのしい。でもいつもわたしはこんなにからっぽで、と思う。こんなにからっぽで、これからどうしていくんだろう。仕事は好きだ。任されていることだってある。でも。なんでこんなに空虚な気持ちなのだろう。何を見ても、何をしても、いつもどこかむなしい。たのしくて、自分がからっぽなことがわかってむなしくて、さみしい。

これを書いていることに何の意味もなく、ただの甘えだろっていう声がどこからか聞こえてきて、そうですね以外の言葉がない。その通りです。

せめてメガネくらい見つかってほしい。そしたらちょっと元気出すから。

出来ること、出来ないこと

2016年も終わりに近づき、残り2ヶ月と少し、毎日が高速で過ぎていくので、一生もこんな風に終わっていくのか・・・みたいなセンチメンタルを抱えそうになるのはさむいからかもしれない。

日々は平和でありつつも何も事件がないわけでもなく、過ぎたことを振り返るとき、ああ相手のためにできることは本当に多くない、としみじみ思ってしまう。わたしたちがルームシェアをできているのは、まだ若く、体力もあって、稼ぐことにも今のところ困っておらず、自分のことは自分でやる、というルールが徹底できているからであって、それが崩れるとき、本当に脆くこの生活は終わるのかもしれない。相手のことが好きだとか、嫌いだとか、そういう感情の問題でなく、日々をどう暮らしていくか、それを支えられるのか、という現実が目の前に現れるからだ。

基本的に腐ハウスは日々のもろもろについて、「自分のことは自分で」をベースに「できる人がやる」というふんわりしたルールを採用している。当番制にしないのは個々が臨機応変に動いたほうが効率が良いからだ。だがそれもあくまで、みなが元気である、ということが条件になると思ったりする。けっこうシビアな条件だと思う。どんなに気をつけようとも、できる限りの努力で何かしらの悪いことを回避しようとも、病気だったり事故だったり、よくわからない厄災だったり、外から訪れるものについては本当に避けようがない。そればかりはわからない。

去年から今年にかけて起こったいくつかのかなしいこと。ここに書けることはほとんどないのだけれど、わたしはやはり「約束」は必要なんだろうと不意に思ったりする。それは「契約」と言い換えてもいいものなのかもしれない。

わたしたちの間には互いの生活を支える契約はない。あるのは自分ひとり分をきちんと支えたうえでシェアできるところはしていきましょう、という認識だけだ。誰かを背負う必要がなく、背負わせたいとも思わない。ただひとりで生きている個人が群れになっているのが実際であって、このままずっと一緒に暮らしていくんじゃない? という話をふざけてするけれども、そんなのはわからない。絶対にわからないのだ。ある日突然何かが起こることは往々にしてあるので。

それでも毎日できるかぎり楽しく暮らしたいし、助けられることも少しだったならあるだろうと思う。助けられるように準備もしておこう、と思うのも確かなのだ。それがかすかな希望であって、続けたいと思うならできる限り健康で、毎日淡々と無茶せずいきたい、と思ったりする。