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雑多な日記

こえをとりもどす

転職してそろそろまる三カ月。ざわざわと自分も言葉も荒れていくなかで、今日やっとすこしマイペース、みたいな時間の使い方ができた。慣れない環境にいらいらバタバタし続けるのも終わりにできるかなあ。漢方もきちんと再開。すこし飲まなかっただけでどうしてあんなに悲観的なかんじに囚われてしまうのだろう。ホルモンてやつはむつかしい。

昨日文章を書いていて、なんというか、内容でなく文体が息が詰まって死にかけのようになっていて、ああよくないなと思った。日記を再開しては、続かず、再開しては、続かず、を繰り返している。思春期のころからずっと好きで息抜きに書き続けてきたのに、いつからぱったり書けなくなったんだろう。くだらないことでも書き留めておけばあとから読んで自分がおもしろいのにね。

最近は10danceの三巻が出てとても嬉しい。BLたんたんと読み続けているけれど、今年は豊作だったのですすめたい作品がたくさんある。

短歌のほうは未來(結社)の紀野恵さんの欄が気になってはいるけれども、毎月10首も出せる気がしないし、なんだかすこしだけ気後れしてしまう。それでもやってみたほうがいいかなあ。どうなんだろう。

 

原稿はちっとも進まない。1文字も書き進められずにいる。

 

 

活動記録

2017

2017/08/05

『詩客』「砕氷船」のコーナーにエッセイ「アサッテに叶えられたユリイカ、そして」寄稿。

http://blog.goo.ne.jp/sikyakuesstannka/e/9f557291543f6df62223a1f9f4efb0b7

 

2017/02/20
NHK短歌』 2017年3月号「ジセダイタンカ」のコーナーに短歌7首「きみにちいさく話すこと」寄稿。

NHK 短歌 2017年3月号 [雑誌] (NHKテキスト)

2016

2016/11/23 東京文フリ
『アニポエ vol.4』杉中昌樹さん発行の詩誌。
おそ松さん」をテーマにした川柳10句「靴下の作法(銀河系Ver.)」を寄稿。

2016/11/23 東京文フリ
『YAMINABE Vol.1』編集発行。川柳10句「針葉樹林の怪獣」掲載。

2016/05
おそ松短歌アンソロジー『UtaMatsu』に松短歌7首とエッセイを寄稿。

~2015

思い出したら書きます

都市のいきもの

仕事帰りに喫茶店に寄る。お茶をするつもりがついしょっぱいものを食べてしまう。テーブルに出てきたタバスコと粉チーズをまっすぐ並べると奇妙な満足感があり、物を組み合わせて並べる遊びを思い出していた。その場にあるあらゆるボトルをいちいち高さを揃えて規則正しく並べたりだとか。

今日ずっと、何かをジャッジすることについて考えていて、「平和」というひとつの言葉をとってみても個人で見えている世界が異なることに、いちいち驚いてしまう。ただ、もし、いまが「平和ではない/平和である」と言う人がいて、それはどちらも「ほんとう」なのではと思ってしまうから、嗤う気にはなれない。強く反発する気にも。ただ、平和な部分と平和ではない部分が入り混じって社会、というのがわたしにとっては本当のとこだとも思うし、じゃなければ、こんなに気持ちが揺れることもないだろう。
駅に掲げてあった「公衆に寄付を求める行為を禁ずる」といったような文言が繰り返しやってくる。禁止されなければならなかったこととして、切り離された光景。きっと数十年前には「あった」光景で、いまは「見えなくなった」光景で、なぜ禁止されたのかもわたしは知らない光景。こぼされたものを見送り、あるいは追いやる、もしくはそのことにより守られる、わたしのいる場所について。

 

スマートフォンにつなげるキーボードを見に行ったものの、どれがちょうど良いかを決めきれず。買うのは保留。

あやとりとして

後任のひとに引き継ぎをしている。一通り説明してはいるけれど、理解している風があまりないので、ああこれはわからなくってもとりあえず説明して頭の片隅に置いておいてもらうのが良いなと思う。昔いたあのひと、そういえばあんなこといってたな、くらいで思い出してもらえるように、繰り返し繰り返し。

大気が不安定なので気持ちも幾分か不安定だけれども、おもしろいことは随時動いている。

わたしが相手にとって愉快で都合の良い相手とは限らないのは自然なことだし、また逆もしかり、と思うから、ほどほどのところでそれぞれ元気でいましょうね、と思う。理解することをあきらめている、と言われたらそうなのかもしれない。理解できる、なんて違うんじゃないかと思う。わからないって思いながら、わかりたい、知りたい、と少し思う、そのたびに、ほんの少しの時間をともに過ごす、いつか離れたとして、それはそれでいい、と思う。

家に帰ってきて、ご飯を食べながらつい「マツコ会議」を見てしまう。女性社長と、キャバ嬢の回。バイタリティの塊のようなひとたちが次々と出てくる。世界にはわたしが想像するよりもずっとたくさんの、いろんなひとがいるのだなあ。あの番組にも台本はあるのだろうから、きっとほんの少しの、ときにたくさんの嘘もあるのだろうけれど、嘘でも本当でも、存在しているのだと思うと、勝手に元気が出るのだった。

 

 

友人と白いあじさいの話をしながら、あの白いあじさいが持っていたかもしれない色について、考える。

もういないひとを連れて

日本ガイシホールで行われたJUJUのライブへ行く。去年の6月、同居人に誘われて国際フォーラムのライブへ行ったのが最初で、以来ぽつぽつライブがあれば行くようにしている。

JUJUは昭和歌謡とスナックが好きで、今回のライブも「スナックJUJU」と称してスナックをテーマに昭和歌謡を中心に披露している。高いヒールで気さくな話と歌声とともに進むライブはとても楽しく、主たる客層が40代〜50代30代~50代というのも関係しているのかもしれない、はっきりと知っている時代の曲というわけでもないのに不思議と懐かしい。

去年の6月歌を聴きながら、ああ、お父さんも連れてきてあげたかったなあ、と思ったのだが、今日もやっぱりそうだった。観ながら、父のことを思い出していた。連れてきたならきっと好きになったんじゃないか、そんなことを思って。

誰かがいなくなるということのかなしみみたいなのは、普段あまりはっきりと感じることはない。父が亡くなったときも、かなしいのではない、さみしい、と思った。今日もまたさみしい、と思った。あなたがここにいないことがこんなにもさみしい、ということをかなしい、と呼ぶんだろうか。

でもまあもういないから。いない時間を過ごしながら、時折、こうして知らないのに懐かしい場所に、もういない父を連れていくのかもしれない。

それもすこし不思議でさみしくて、たのしい。

 

どうでもいいこと

会社の昼休みに同僚と外へ食べに出て、帰りに「女性のためのセルフプロデュース講座」という紙を持った人を見かけた。あまり見るのも失礼であることはわかっていたのだけれど、ついその文字列が気になって見てしまい、女性のためのセルフプロデュースとはなんだろうな、と思った。「わたしらしく」といったような意味だろうか。それとも、「こう見せたい」という「わたし」を纏うことだろうか。自分のために自分を変化させる。それはとてもすばらしいことだろう。すばらしいことであるはずだ、と思うとともに、かくあるべき、といった視点も感じてしまい、いやいや、いやいや、どうなんだ? と考えていたところ、一緒にいた同僚が「講師が男の人でしたね」と言った。

「そうなの? ぜんぜん見えてなかった」

「そうでしたよ、男の人が女の人にセルフプロデュースを教えるってやばいですよね。わたしらしくあるために、とかだったらわかるけど」

だいたい、セルフプロデュースして、それを続けるってできなくないですか? 恋愛でも仕事でも。ずっと自分を見せたい自分として維持し続けるって大変ですよね。

わたしもそう思うよ、と答えながら、心のすみで何かが引き裂かれる。ありのままに、と言いながら、どう見られたいかはいつだって頭のすみにある。セルフプロデュースがだめなんじゃない。セルフプロデュースを男性が教えることがだめなのでもない。セルフプロデュースを、自らが選択できているのか、そしてその講座の内容は外からのイメージを押し付けるものではなく、意思をより自由にさせてくれるものなのか。

気になって、しばらく頭から離れなかった。

でも、もしかしたら、何か頼りたいものがあって、なりたい自分があって、みせたいものがあって、通うのかもしれない。通うことでより自由になれるのかもしれない。見せたい自分と、実際の自分を、近づけていく作業なのかもしれない。けれど、そういうメッセージにより引き裂かれるものもあり、同時に「男の人が女の人にセルフプロデュースを教えるってやばいですよね。わたしらしくあるために、とかだったらわかるけど」と言った同僚が若い男性であることに、ほんの少し安堵するのだった。彼はただ無邪気なだけかもしれない。

わたしのいまいる職場は女性のほうが多い。非正規職員が多いから、必然的にそうなるだけのことなのだが。次に変わる会社では男性の方が多い。女性はほとんどいない。あなたは大丈夫、と言われているけれど、どうだろうか。

ツイッターに疲れたので、しばらく日記を再開する。とりとめもなく、どうでもいいことを書いていきたい。

 

見あげた空はぽっかりとして

 

歌集 うはの空

歌集 うはの空

 

年始から西橋美保さんの『うはの空』を少しずつ読み進めていた。

気に入った歌、気になった歌はぽつぽつツイートしていたのだけれど、最後までたどり着いたとき、ああ終わりだ…、と思ったのだった。うんざりでも、晴れ晴れしくでもなく、終わるべくして終わる、というかんじ。過不足のない、誠実な歌集だった。

 

つくしき挽歌を詠まざるわたくしが投げし薄墨いろの夏薔薇
虫かごのなかで羽化せし姫ぎみの髪のすらりとながき触角
なべて貴種は流離するもの「堕天使」とよばれし星は朝な夕なに
ゆるやかにほうたる息づくほうたるの息に息づき苦しくなりぬ
映り込んだ月を盥でざぶざぶと洗つてさつぱりきれいな月だ
すこしづつ自分を切り売りすることを労働と呼び買ひ戻せない
風葬もよきかなはるか百合しろく向き向きに咲く髑髏を抱へ

(『うはの空』西橋美保)

 

物語のような歌に織り交ざっていく生活と、生活にあらわれる外からの暴力。
生きながらえるための逃亡の末に訪れる暴力の終わりのはじまり。その経過をたんたんと『うはの空』は描いている。

暴力の加害者が消えたからといって痛みや傷が簡単に癒えるわけではないし、過去がなかったことになるわけでもない。この歌集に描かれている経過は、外から見る「整頓」ではなく、「美化」でもなく、安易な「許し」でもない。言葉は意味とともにイメージをつれてくる。それは常に実際よりも大きかったり小さかったりする。その差異をおもしろく感じることもあるけれど、この歌集のように、目の前の在りようを、主体の感情を丁寧に捉えようとする言葉に出会うとき、しみじみと感動してしまう。

読み進めた先。そこに小さな呼吸のような一首が立っている。その一首にたどり着く、読み終える間際、ああ、と息をつかずにはいられない。しみじみ、というのがふさわしい、静かな胸のふるえがそこにある。