生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

2020/02/11 - 02/15

2020/02/11(Tue) 新居

Twitterからの引っ越しを検討して、マストドンへ登録。

他のSNSを利用するとツイッターの特徴や自分がどう使っていたかがわかってくる。わたしがツイッターで主にやっていたのはコミュニケーションと情報収集。それどう切り替え、なにを残していくか、試しながら考える。

2020/02/12(Wed) 新しい道具

情報収集の方法をツイッターからRSSリーダーに切り替える。

ツイッターだとほぼ「誰かが紹介した情報」を「誰かの意見」や「解釈」とともに目にしている。すごく受動的だなと思う。もっと能動的に情報を集め、ときに沈黙しながら考え(共有するのはあとでいい)、自分の意見を組み立てるのが重要なのではないか。反射で反応せず、誰かの顔色をうかがいながら語るのでもなく、まずは自分ひとりのために考える。そして共有するときは、相手が生身の人間であると確かめながら話したい。そういう風にわたしは考えていきたい、つまり、時間をそういう風につかいたい。無思考の語りによって、損なわれてしまうものもある。

2020/02/13(Thu) 同じ都市のなかで

マストドンをはじめたばかりなのにインスタンスをお引越し。ローカルタイムラインの存在しないfedibirdさんでしばらくお世話になろうと思う。

マストドンについて使い方などを調べているとどんどんたのしくなってしまう。すでに404になっているページなども多く、良い意味で便利ではないインターネットの存在を感じる。どこかの誰かがなにかを作っていたのだ、という形跡だけ見つけるとき、見ず知らずのあなたはいまどこでなにをしているだろう、と思う。

2020/02/14(Fri) 「〜と思う」

ツイッターでつけなくてもいいところまで「〜と思う」をつけてしまっていたと気づく。言い切る形でものをいうのがこわかったのかもしれない。何かしら、たぶんひとの気配のようなものに怯えていたのだ。

調べものをしながら、わたしはそもそもインターネットそのものが好きなのだと気づく。気持ちや環境、さまざまな理由でうまく動けない状態にあるとき、パソコンとネットワークが世界に連れ出してくれた原体験によってインターネットを捉えてしまっている。20年前、わたしにとっては夢みたいな技術だったし、体験だった。でもいまはもう社会のインフラとしてインターネットはあるわけで、ほわほわとした気持ちに留まってもいられない。原体験も大事にしつつ、懐古主義に陥らないようにしなくては。

2020/02/15(Sat) ミナ ペルホネン「つづく」展

東京都現代美術館へ、ミナ ペルホネン「つづく」展を見に行く。

ミナ ペルホネンは『流行に左右されず、長年着用できる普遍的な価値を持つ「特別な日常服」をコンセプト』にしているファッションブランドだ(洋服以外にもクッションなどのインテリア雑貨などもつくっている)。

展示はブランドの代表的なデザインの紹介、25年にわたって作り続けてきた洋服の展示、テキスタイルや刺繍のデザイン画など盛りだくさんの内容でたいへんたのしかった。川上弘美さんの小説「森へ行きましょう」の題字と挿絵はデザイナーの皆川明氏が手がけており、繊細な線がすてきで、ときおり眺めたくなるだろうと思い、図録を買ってしまった。

この図録の冒頭に「私達は、空想や思考という形ではない意識から出発して物や事を創る。」とあり、一瞬意味がうまく飲み込めなかったのだけれど、続いて「その物や事は、私達の日々の中で、新たな記憶や空想という意識へとまた還っていく。」ときて、その循環から作られているという認識が言語化され、制作の運動というか、思想がこうして工業製品に落とし込まれ、流通している、そのことに月並みすぎるけれど、凄みを感じてしまった。結晶化されたうつくしさ。そしてそれを纏うとはどういうことなのだろう。

(この展覧会を見たあと、近代美術館の工芸館で「パッション2020」を見て、不意にわたしは工芸をアートのようには感じていなかったと思い、ミナ ペルホネンもまたアートとは異なる領域に追いやろうとしていたと反省したのでした。さまざまなジャンルは厳密な定義のもとに分断して存在しているわけではなく重なり合いながら存在しているのだよね)

前後するけれど、東京都現代美術館では、他の企画展と常設展も見た。

地下でやっていた「Echo after Echo−仮の声、新しい影」がはちゃめちゃによかった。なかでもわたしがとくに惹かれたのは、「吉増剛造プロジェクト|鈴木余位+KOMAKUS」。詩人の吉増剛造が2019年の夏に石巻に滞在し、金華山と対話しながら、一遍の詩「Oh! Mademoiselle Kinka!」を書いていく様子を映像に残した作品だ。罫線の引かれた紙のうえを、ペンやえんぴつ、黄色いダーマトグラフがうねうねと、ときにざっざと動いていく様に、とつとつとひとりごとのようなつぶやきが重なって、世界がひとりの人間の肉体を通り、ふたたび言葉や音になってでていく(ときに、でていかない)様子をこんな風に見てしまってよいのだろうかと思いつつも目を離せなかった。ヘッドホンで聞いた音声が耳の奥にまだ残っている。

詩の朗読、したいな。