生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

たまたま地球のいきものとして

お財布の中身を確認せずに出かけてしまい、目的の美術館着いたところで入るお金がないことに気づいた。ATMを探しているうちにサントリー美術館が目に留まり、せっかくだしと思い、河鍋暁斎展を見る。

暁斎は弟子入りが9歳とかで(早いなと思ってしまうけど、当時はそういうのが普通だったのかな…)、師匠と暁斎の関係についての一連の説明のなかに

その才能を「画鬼」と呼んで愛した。 

とあり、この言葉にならない気持ちを誰かに伝えたいけど、うまく言えないからこの言葉を置くことで伝わってほしい。

鳥獣戯画を下敷きにしたカエルの絵がとてもかわいくて見入ってしまった。ふっと今敏監督の画面を思い出したりして、今敏監督は浮世絵などの影響もうけているのかなあなどと勝手に。地獄太夫が骸骨のゆめを見ている絵が好きだった。

そのあと国立新美術館へ移動して、今日の目的だったイケムラレイコ「土と星 Our Planet」展を見た。

かわいらしいとされるモチーフを臆せず作品に取り入れることの強さ。

「おんな子ども」という箱に放り込まれてきたものが(観ているわたし自身が放り込んできてしまったものたち!)、作品の中心に置かれていること。作品の好き嫌いや良し悪しの前に、そういうことがなんというか、がつんと、「そういうところだよ」と言われたわけでもなんでもなくて、自分で自分に対して「そういうところだよ」と言いたい気持ちになった。「かわいい」に入ってもおかしくないのに「かわいい」というのとも違った。「かわいい」で飾られているわけでもない、けれど、根底で「かわいい」と感じる気持ちを生み出すやわらかい部分とつながっている、モチーフたち。ときにそれらが異形の姿になってこの星の自然をうつしとったものと織り交ざりながら表されていた。わたしの気持ちを超えて、社会や、社会のさらに外側の、もっと大きなものとつながっていく表現。

「笑われるかもしれない」「くだらないといわれるかもしれない」と隠してきたものが、暴かれるわけでもなく、誇示するわけでもなくそこにある。そっと置いてある。示されている。そういう強さ。

そこで立ち止まって、「そういうところ」と自分に問いかけてしまうのは作品を評する以前のわたし個人の問題で、でもそういうことをひとつひとつ紐解いていかない限り、この社会で「女」という肉体をもって生まれたことの呪いはとけないのかもしれないなあ、みたいなことを。いままで思ってきた、おとこのこになりたかったなあ、という気持ちは、ただ平等にしてほしかったなあ、ということだったのかもしれないし、わたしはわたしの好きなものにちゃんと目を向けてきただろうか?