生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

(フィクションのなかの)悪に生かされている

先日「BAADY」を観たあと、バンドの話などをしていて、久しぶりにDir en greyの最新曲のPVを見た。相変わらずえぐさが極まっていた。Youtube用に表現規制していた映像であっても十分すぎるほどで、あのもやの向こうでは人間の体が松かさのように開かれていたのだと思う(実際見る勇気はなかった)。

改めてみながら、ああもうDirはずっと、というか歌詞を書いているのは京くんだから、京くんは、悪を悪として描き続けているひとなのだということを思った。美化するでもなく、ただただおぞましいものとしてあるもの。救いはなく、その悪を放ったあとの人間は悪を引き受けるほかない、といったような。えぐさをさらに煮詰めたような映像は、曲は、歌は、ほとんど吐き気とともにある。

10数年前に彼らを追っていたとき、わたしは、その悪の描き方に信頼をおいていたのだ、と思った。どうしてあんなに惹かれていたのか、当時は言語化できていなかった。実際熱に浮かされるようにして追いかけていた部分もあるだろう。

日常における小さな悪は隠されており、繰り返し繰り返し思春期のわたしを傷つけてきたけれど、明らかにされた悪はわたしを傷つけなかった。わたしを傷つけるのはいつだって現実にある、隠された悪であり、ぱっと見「良いこと」とされていたものだった。

再び「BADDY」に戻るけれど、見ている最中、ここで描かれる悪は「良いこと」から零れ落ちたものではないのか、とどうしても思ってしまっていた。あいまいなところで漂うものを悪だと定めるのは「良いこと」ではないのか。そう思えばみんながひとつの天国に運ばれていったこともわからなくない。良い子でいても、悪いことをしても、みんな天国へ行く。ただ社会を潔癖に保つためにさまざまなものが見えなくされているだけで。

グッディが怒りを取り戻す場面。怒りを発露することさえ「悪」とされていた世界で、「生きている!」と叫びながら脚を蹴り上げる、あの美しい怒りに胸が奮えないことがあるだろうか。怒りもまた隠され続けてきた感情だった。

宝塚とDirではぜんぜん重なる部分がないわけだけれど、唯一悪を描く、というところを媒介に考え続けている。創作物でしか発露できないもの。そういうものの存在を感じずにはいられない。

もちろんこれは社会のありようとセットだから、手放しに暴力的な描写や、あるいは悪を賛美するようなものを、受け取る側の人間として持ち上げてはならないことはわかるし、わたしはゾーニングは必要だと思っている立場の人間だけど、現実の悪の存在が露わにされないのなら、創作物できちんと悪を悪として、示す必要はある、というより、そういうものを見たいと思う。はじき出されてきた感覚のあるひとりとして、創作物の中の悪により生かされてきたものとして。

社会がもっと懐深くあったなら。失敗しても立ち上がれる土壌があれば、と思うけれど、それについてはまた今度。