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雑多な日記

揺れうごくうつわとしてのわたし

 最近仕事で知り合ったひとに、いま一番興味を持っていることは何ですか、と訊ねられ、BLですね、と答えた。
 へえ、BL。BLってあのBLですか? 重ねて訊ねられたので、そうです、と答えた。
 わたしがBLを読み始めたのは中学生のころで、そこから20年ほど経っているのに、いまだにBLに一番興味があるってどれだけだよと思ってしまったのだけれど、「興味を持っていること」への答えがとっさにそれしか出てこなかった。
 BLってなんなんですか、どういうものなんですか。次々と質問を投げかけられて、内心おろおろしながら、一般的には男性同士の同性愛を描くジャンルといわれていて、とか、でも実際はそれだけじゃなくて、とか答えたのだけれど、結局BLをなぜ読み続けているのかは話せず仕舞いだった。
 BLをなぜ読んでいるのかを説明するのはとてもむつかしい。
 だからいつも外向きにわかりやすい説明を用意する。ジェンダーに関わることや、自分の生まれ育った環境にも所以があるような説明をする。そういう側面もゼロではない。でもそれは社会的な説明であり、問いかけた相手を安心させ、納得させる説明だとも思う。
 小学生のころ、わたしはガンダムWのデュオ・マクスウェルというキャラクターが好きだった。ランドセルに、地元のなんちゃってアニメイトみたいな店で買ったデュオのラミネートカードを忍ばせて学校に通うくらいには。その頃すでにキャラクター同士をカップリングして楽しんでいる知人もいたのだけれど、いかんせん感情が未分化だったわたしの「好き」はトトロとデュオを並列する段階にあった。デュオをどうこうしよう、あるいは、デュオとどうこうなりたい、といった感情の芽生えはなく、同級生たちがひそひそ声で話す恋のこともまだよくわからなかった。
 好きなひといる? だれ? 小学3、4年生くらいからそういう質問は飛び交うようになる。やだ、教えない、と答えるけれど、実際、好きな男の子がいたことがなかった。だけれど、あまりにそういう話題を投げかけられるゆえに、どうやら好きな男の子がいないとおかしいらしいぞと小学生のわたしは気付いた。そこからしばらく、いや、だいぶ長いこと、好きな男の子がいる、というポーズをとりつづける時期が続いたのだけれど、高校生になって、いつまでそうやって好きでもない男の子のことを好きだと言わなければならないんだろう、と思ったのだった。わたしはずっと目の前の女の子のほうが好きだったので。何故女の子なの、と問われてもわからない。いろんな理由をつけてみてもしっくりこない。結果として、女の子を好きになることが多かったこと、女の子と付き合っているという事実だけが積み重なっていった。
「男性とセックスしてないからじゃないの」と問われ、自分のありように疑問を持ったこともある。『そうか、じゃあ、男性とセックスをしてみて、いやだったなら、あるいはできなかったならわたしは「本当」にレズビアンなのかもしれない』などと愚かなことを考えたこともある。いまになればセクシュアリティに「本当」も「うそ」もないと思うし、セックス経験の有無で何かが変わることなんてないと思うのだけれど、そのころはまだ自分のありようが信じられなかった。だからこそ、その問いかけは罪深いと感じる。
 肉体も精神も、雑に扱えば扱っただけ損なわれるし、確実に減る。減らないなんて、うそだ。
 レズビアンなら百合を読まないの? と聞かれたこともある。
 百合やレズビアンが描かれているものを読んでこなかったわけではないし、志村貴子の『青い花』や、やまじえびねの『LOVE MY LIFE』、柳川麻衣さんの『ロータス』、少女革命ウテナユリ熊嵐などは大好きだ。だけれどBLのように貪って新しい作品を求めようとは思わずにここまで来てしまった。
 百合の物語に繋がることがわたしはすごくむつかしい。それはわたしが自分自身を「少女」からこぼれたおちたものだと思っているからだと思う。少女と表象される存在と、自分の要素がなにひとつ重ならない。数多の少女のなかに、わたしは含まれず、「少女らしさ」からこぼれていくもののなかにしか、わたしが繋がれるものはない。それも自分に外側からの要請としての「少女」を重ねたゆえの呪いかもしれない。
 だから『美少女戦士セーラームーン』の天王はるかや、『聖伝』の阿修羅、あるいは『火宵の月』の火月のような、作中で性を行き来する存在のほうがずっと、アクセスしやすかった。わたしにとってBLはその延長にある。
 BLに出てくる少年や、青年、男性の表象をかたどった人物たちはけっして男性にとどまっているわけではない。男性のうつわをとりながら、あるいは男性のうつわを変化させながら、ときに女性として存在する、その揺らぎをわたしは読んでいるのだ。読みながら、自分の存在を確かめている。それはキャラクターに感情移入するということではなく、揺らぎ、変化する存在がいることを確かめているのだ。
 世界に、あまたの揺らぎがあることを確かめられる。
 ただこれはわたしの理由であって、誰かの理由ではないだろう。わたしは、たまたまこうだった、というだけの。
 物語を必要として、読むことの理由。それは簡単に示されないし、わかりやすく説明できるものではないとも思う。それは自分が自分であることの一番、やわらかい部分とつながっている。自分のなかには男も女も棲んでいて、日常の中で揺れ動きながら存在している。こう感じるのは中2病の延長だろうか。ありとあらゆる立場のひとが、たとえば結婚して、子どもを産んで、世間的にはシスヘテロと呼ばれるかたちで生活するひとのなかにも、わたしのようにレズビアンとしての事実はあれどもレズビアンなんだろうかと揺れ動きながら存在しているひとのなかにも。前提としての自分の性の揺れはあるのではないだろうか。
 このことはなかなか理解されない。けれど、女性として生まれ、男性を好きになるのが普通とされてきた世界において(あるいは、男性に生まれ、女性を好きになるのが普通とされてきた世界で)必要に迫られて嘘をついてきたわたしは、いまも生きるのに嘘が必要なのだけれど、もし嘘をつかなくてもよくなったなら、ということを夢に見る。
 わたしが、わたしであることは、けして特別なことではないと思う。

花を好きなのを
黙ってたことも
名字が嫌いなことも
2年すれば忘れて

その3年後には
今気にしている
ようなことは
どうでもよくなる

…その5年後
16歳の自分が
大切なものを
ドブに捨ててきた
ことに気付く

(中略)

人類にあまねく
ふりかかる呪い

世界の決まり

ヤマシタトモコ『HER』case.3