生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

ねむい

 「少年たちはなぜ人を殺すのか」読了。



 神戸の事件や九州のバスジャックの事件、ユリイカが取り上げられていたので読んでみたけれども。なんだかなーなんだろう。私の中でずっと引っかかってるものの一つではあるのです。地下鉄サリン事件と神戸の事件。バスジャックに佐世保の事件。あとは9.11。自分の生きている時代のことだからかな。その事件を起こした加害者が、というよりも、なぜそれが起こってしまったか、を考えてしまう。それって個人だけに問題があったわけじゃなく社会の流れの中で起きたことなんじゃないかと思って、何かしら関連があると思うと読んでしまう。

 人にとっての「底が抜けた」状態というのは今の日本において珍しい状態ではないのだと思う。自分自身にもそういう部分は少なからずある。でも「なぜ人を殺してはいけないか」という議論はできることならしたくない。自分の中での答えはなぜを問うまでもない状態にあるからだ。かといってもし何の感情のゆれもなく、「なぜ」を問われたら、あるいはもしそう思ってしまったら、どうやって「こっち」と「あっち」を分けるんだろう。



 何か事件があるたびに容疑者や被害者の情報を繰り返し垂れ流すメディアに対する疑問とは別にして。



 MWのインタビューの中で山田孝之が「人を殺したらいけないって法律(?)があるのは、人は人を殺しちゃうからなんですよ、人がどうしてもやっちゃうことだから、法律があるんです」っていうようなことを言っていて、それもまた一つの意見ではあるなあと思った。でもそれは感情の流れの中に生まれる殺意(結果としてでも動機のある殺人)について、ではあるのかもしれないけれど。



神戸の事件があってから書かれた小説。