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雑多な日記

ものがたりとの

 小学3年生のとき、作文で賞をもらったことがある。
 年に数回、市の小中学校から集めた作文を選抜のうえ、学年別(もしかしたら小学年、中学年、といった区分けだったかもしれない)に文集にするというもので、秀作には「すいせん」という文字がついた。響きでしか覚えていないから正確な字面がわからないがあれは「推薦」だったのだろう。
 もちろん自力でとったわけではない。当時の担任の先生が「一番」をとることに熱心な先生で、国語の授業内で書かせた作文の中から良いものを選び、選ばれたものは放課後マンツーマンで指導されつつ書き直すのだった。この時どう思ったの? どういう風だった? 質問されながら書きすすめていく。書きあげては直す。書きあげては直す。それを繰り返して書きあげたものだった。
 わたしは文集にのるだろうと思った。もしかしたら「すいせん」ももらえるかもしれない、とも思った。同時にどうすれば先生が喜ぶか、これはいいものだと言われるか、ということもぼんやりとながらわかっていた。わかっていたからその通りに、作文にほんの少しの嘘を含めたのだ。
 できるだけ感動を呼ぶように。良いお話と呼ばれるように。ほめてもらえるように。
 その作文は「すいせん」をとった。
 先生は喜んでくれたが、わたしは「すいせん」をもらったことを母には言えなかった。冊子も家にかえってすぐに隠した。書いてあることは事実だ。だけれどわたしは気持ちのうえでいくつかの嘘を書いた。それを恥ずかしいと思ったのだった。
 ほめられるために自分の気持ちを捻じ曲げて文章を書くことの恥ずかしさ、やましさ。それはそのときに覚えたものだと思う。
 物語は嘘でできている。でもその嘘は物語の中や書いている自分の中では本当でなければ、と思う。ほめられるために物語を捻じ曲げてはいけない。そのことで評価されなかったとしても、自分のくだらない嘘のために物語が歪むことはないのだ。それは物語を守ることにならないだろうか。
 わたしはきっと書くのだろう。書き続けるのだろう。だったら物語に、言葉に、嘘はつかない。