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雑多な日記

死なないでいるということ

久しぶりの日記です。

最近は短歌に日常のことも織り交ぜているのでこちらに書くこともなかったのですが、許せずにいたものを軽い気持ちで短歌にしたらそれがただの呪いとなってしまい、おそろしい、と思ったのでした。散文だったなら薄まるそれがどうしてあんなことになってしまうのだろう。

祈りとは良いものばかりではない。呪いも含めて祈りなのだ。

言葉にかかわるということは自分と向き合うことであって、世界に近づくことでもあって、おそろしい。言葉にかかわるとわたしは消えてしまいたくなる。見たくないものも見えてくる。そう思うと自分が言葉のないところにいこうとしたのもわかる気がした。

父にほどほどでよい、と言われたことがあります。
「ひとが生きるためには境界線のこちら側にいなくてはならない。境界に近づけば近づくほどよくものが見えるようになるけれど、危うくもなる。だからほどほどでよい。ひとは簡単に向こう側にいってしまうよ。」

言葉と関わるなら、そこは肝に銘じておかなければならない。生きていくのなら。

敬虔な判断停止

わたしはこれをひとが生きていくためのものと思っている。詩人として、詩人はそこから一番離れたところにいなくてはならない、日々におけるいくつかの判断の停止を危険とするならば、いっそ危険なままでいいとも思う。

そういう意味ではわたしは文芸には関われないのかもしれない。死に近づいて、いっそ死んで、そのとき得られる何か、など必要だろうか。

最近10代のときのことをよく思いだします。自分が一番死に近くあったときのこと。
ひとを自死に至らしめるのは死にたい、ではなく、死ねる、だと思う。死ねる瞬間に引きずられるのです。死を意識していたとしても、死にたい、と思っているうちはたいして死なない。死ねない。死なせてもらえない。けど、突如「あ、いける」と思う瞬間は訪れてしまう。そのときにいくかいかないか、それは運のような、タイミングのような、そういうもので。

さよならはいやだからまたねと書いた。だからそのままにわたしは死ななかったし、また会うことができた。

「さよなら」の先に「またね」はないのだ。

わたしは詩より生を優先します。
自死に至るうえで得られる言葉たち。それはかみさまだけが知っていればいい。

うららかな吾で吾を弔ふ春の日に自死よさらばと墓石に刻む