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雑多な日記

ぐるりぐるり

人のことをどうこういっていると結局のところ、はて自分はどうだったかなというところにもどってくる。先ほども職場のあれこれを同僚と話していたのだが、着地点が「軽んじられていると感じるところに人は長居しない」で、あーあこんなこと言っちゃってまーえらそうに、と自分はどうなんよと思っているいま。
軽んじている、と言われなくてもひとは軽んじられてることに気づく(と、思う)。こんなもんでいっか、とか、これで満足するだろ、みたいな気持ちでいると、それは大体相手に伝わる気がする。
軽んじられれば悲しい。大切にされればほっこりする。言葉で言われなくとも伝わるものはたくさんある。(言葉にしなきゃつたわらないことも、もちろんある)
最近大事にするってなんだろう、丁寧ってなんだろう、そんなことをよく思うので、今日もまた、というかんじ。だから良い、だから悪いじゃなくて、どうなんだろうな、そうなのかな、ちがうのかな、ってことばのはしっこをつかまえてははなし、を繰り返してる。

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なんでもいい、と思う。本当になんでもいい。なんでもいい、は、どうでもいい、ではなくて、なにがあってもいい、というのに近い。自分の中のノーが他人にとってのイエスであっても、その逆があっても、いい。それがだめだってなると、かなしい。なんでか、かなしい、と思う。それぞれ、考えて選んで決めて、ってならそれでいいじゃない、って。誰かの哲学が自分の哲学になるわけでもないし、自分の哲学を誰かに押し付けるわけでもないし、哲学を信仰に置き換えても、信条に置き換えても、考えに置き換えてもいいけれど、できればそこはどこまでも自由にあってほしいとおもう。自由だとうれしい。なんでか、うれしい。

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とかいってるとひと殺してもいいのかとかなんとかいわれそうだけど、そこはひとの良心というやつ。良心とか思いやりとか倫理とか、最終的にはそういう部分にまかせるものというのは大きくて、個々のもってるこころにまかせたうえでの、自由。なんちゅーか、もうこころがしばられるってのが、あのひとがいったから、おこられるから、まわりとちがうから、とかそういうのどうでもよくって、本当にいやなことはやらなくていい、やらなきゃいけないことはあるけれど、それだってほんとにほんとに死ぬほどやりたくないと思うのなら、やらなくっていい、そういう風に思う。いやなものをいやっていえる、すきなものをすきっていえる、そういうのが、いい。自分の頭で考えて、こうしたいって思って、そうする、そういうの、いい。一般論の良い悪いじゃなくって、ただ、いい、と思う。