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雑多な日記

感性

最近いろいろな人の写真をみて刺激をうけながら、あらためて自分を振り返っている。影響を受けるのは悪いことではない。だけれど表面だけをなぞるのではあまりに能が無い。影響を租借して自分のものにしたい。何をよしとするか。それをきちんと持っていなきゃいけないなと思った。同じことをしていてもそれはいつか行き詰る。わたしはなにがしたかったのだろうとわからなくなる。わからなくなると作れなくなる。つまらなくなる。つらくなる。だからここはきちんと考えておかなきゃなと思う。

わたしの作るもののなかにあるものはなんだろう。

何もしなくても出てくるのは湿度。パリの写真を撮ったとて出てくるのはわたし自身の湿度の高さ。それは日本的なものだと思うし、自分の性格だとも思う。

おさまりの良い構図を好む傾向にあるので、撮った写真にあまり面白みがない。きれいではあるけれど。それを残しつつも、もっと大胆な構図に挑戦しても良いと思う。露出やレンズとカメラの組み合わせも同じ。安定感があってぼけがきれい、かつ対象に近づける50ミリでつい撮りがちだけど、もう少し違う画角を試してみても良いと思った。

機材の問題。いままで気にしたことなかったんだけど、今回周りをみて気付いたのは20Dはもう古いカメラなんだってこと。画素数にせよ、描写力にせよ、今のカメラには敵わない。写真の質とはまた別の話ではあるし、20Dもけして悪いカメラじゃないけど。作品によっては20Dで撮ったほうが良い場合もあるだろう。たとえば粒子の粗いモノクロ加工をする場合とか。必要に応じて使い分けだなー。とりあえず早急に1台新しくカメラを買う必要はある。レンズに関しては望遠を1本くらい持っててもいいのかなと思っている。(結局50ミリに戻りそうな気もするけれど!)

あとはなんだ。

けっしてきれいに撮りたいというわけではないということ。自分の中にあるのは、一番は自然なものを撮りたい。流れのあるものを撮りたい。だけどものによっては人形を撮るようにして撮る必要はあるし、自然を良しとせず、不自然を良しとするものの見方も持っておく必要はある。

以上映像的な反省。
内容は何を伝えたいか、とか、何をどうするか、どうしたいか、どこへむかいたいか、をもう少し考えてから撮りたい。撮りながらうまれてくるものはもちろん大事にするけど、決めてもっておくもの、と流れ生まれるものを共存させるにはどうしたらいいか。

かんがえる。