生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

ここが一番書きやすい

いろいろ試してみたものの、結局この場所が一番書きやすい。ただflatという名前は変えようかなと思っている。「ひねもす」、「flat」ときて、次はなにになるだろう。

COVID-19感染拡大に伴っての自粛生活も、だいたい2ヶ月が過ぎて、何かが起こったときほど周りとのズレもでてくるのだなと感じている。facebookでわたしが見ているフィードは強く生き残っていけるひとびとの声にあふれ、その中でも大変なこと、苦しいことはあるのだろうけれど、弱い存在へ気づいている気配もないように勝手に感じて苦しくなっている。勝手な感想だ。

わたしはいまもどこにも所属できず、雇用はされてはいるものの、どこか他人事のようになってしまう。当事者でありたい、とは思っている、けど、馴染めない(自分はなんの当事者であるのかを地獄の窯の蓋をあけながら、勇気を出して考えていかないといけないんだろうな)。

未来がいろんなひとの視点で語られ、流れていく。けれど、社会からこぼれ落ちていくひとたち、そういった存在が語られているのを見たことがなく、見えないだけなのか、ないことにされているのか、想定されていないのか、などとつらつら考えてしまう。漂白された未来はとてもきれいでチリ一つない。その未来のなかで一体わたしはどこにいるんだろう。当事者として、どういう形でそこにいるのか、イメージができない。

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朝起きてごはんをたべたあと、本を読んだり、授業を見たり。LGBTをテーマにした特別講義で、語り手として出てきた人がみんな男性にちかしいひとだったので、もう少し女性にちかしいひとがいてもよかったのにな、と思ったりした。