生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

いのちづなをよる

二次創作の存在を知ったのは12歳のときで、ようやく意味がわかるようになったのは19歳のときだった。中学高校で出会った友人たちは版権ものの二次創作をし続けていたし、わたしも隣で見てはいたものの、自分でやることはなかった。単純にできなかったのだと思う。ときどき詩や短い小説、こういう日記のようなものは書いていたけれども。息苦しさばかりあった思春期の、なんとか日々を生き抜くためのことばとして、息抜きのような、それこそ風船に針をさしてまわるような、行為としての詩を書いていた。誰のためでもない、自分のためだけに。

少し元気になって、精神的にも余裕がで始めた頃、版権ものの二次創作をはじめたのだった。そこでやっと受けや攻めの、ようは左右の意味が理解できたのもある。理解が遅いのは昔からだ。

二次創作を始めて、楽しいことばかりだったか、といえばそんなこともないけれど、キャラクターに頼りながら言葉を紡いでいくことは、自分にとっては大切な行為のひとつだった。そこで出会った友人が短歌を作り始めたこともあり、そうか、短歌って自分でも作れるんだ、と思ったのだった。全ては緩くつながっており、いまもそれは変わっていない。

わたしは漫画が好きで、小説はほぼ読まない子どもだった。読むようになったのは大人になってからだ。ずっと挙動不審なただひとりのオタク女子で、男子にはずいぶんいじめられた。学校はどちらかといえばつらかったからいまは大人になれてよかったと繰り返し思ってしまう。

わたしはオタクだ。でもそれだけのことだと思っている。

だからこそ、腐女子はなんでもBLにする、みたいな、そういう揶揄が、とくに同じ女性から出てくるとき、意味のわからないダメージを負うのだった。いっそひどくバカにされる方がマシで、無意識のなにか、なにかにはなかなかどうして勝てないと思う。悪気はないことが大半だから。でもあなたの悪気のない足はしっかりわたしの足を踏んでいて、そのことにはちょっと気づいてくれないかなあと思ったりはする。

女性の解放について語られるとき。そこにわたしはいるだろうか、と思ってしまうとき。ああ結局、入れてほしい、と言ったところで入れてもらえないのかもしれない、とも思うとき。わたしはひとつ自分のなかの糸を手繰り寄せる。わたししかわたしを救えないのだから、と思ってしまう。救いを他人任せにしたことがそもそもの誤りだった、みたいにも。実際には他者に救われることもあるし、あったよな、とも思うけど、少なくとも自分を救う自分の糸は太いほうがいいから、えーんやこらと縒ってみている。雨は降り続けている。