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雑多な日記

メガネが見つからない

さっきからメガネを探しているけれどみつからないので仕方なくコンタクトレンズをつけた。わたしは裸眼で両目とも0.02ほどであり、手のひらを顔の前数センチ程度にまで近づけないとしわが見えない。持っているメガネの矯正視力は0.5~0.6程度、コンタクトだと1.0くらいだろうか。仕事でコンタクトなのはパソコンを使うときにはそっちのほうが疲れないからで(メガネの重みってけっこう疲れるのだ)、家でメガネなのは、コンタクトの世界は鮮明すぎて逆につかれるからである。ちょっとぼんやりしていて、外せばすぐベッドに入れて、目もかわかない、メガネは良いことしかない。そのメガネがさっきから見つからない。

昨日性描写を伴わないエロスについて話していたけれど、結局わたしはファンタジーとしてのエロスしか安心して消費できないし、生身の人間をイメージできるもの、あるいはイメージしてしまうものについては楽しめないのだなと思ったりした。それは消費できるひとが云々という話ではなく、ただわたしは、という話である。このあたりの加減はひとによって異なるので、その違い自体はそっとしておきたいのだけど、こういう話をするときいつもついしゃべりすぎてしまって、あとになって「ああ…」と後悔することが多い。しゃべりすぎるとき、何か大事なものが損なわれたように思ったりする。なんにも損なわれていないよだいじょうぶ。そうは言うけれども、わたしの足は確かに誰かの足を踏んでいたな、と思ってしまう。足でなく、背中かもしれない。

ひどいうつでもなく、ただ怠けているだけであることはわかってはいても、最近ふと、生きているのがつらいな、と思う。積極的に死にたいわけでも、なんでもないので、わたしは明日も生きるのだろうが、なんで生きているんだろうな、と思ってしまう。なんのために。なんのために? なんのために、と考え出すと絶対もう死にたくなるやつだな、と思う。みんななんのためにとか考えていないんだろうか。たとえば大事なひとがいたなら死にたくならないんだろうか。あるいは守るべき存在があったなら? ひとでもいい。仕事でもいい。なにか、楽しみでもいい。そんなこともないのか。ひとりで、ひとりの、命を支えるということが、こんなにもむつかしい。自分の仕事の対価としてもらったお金で何かを買ったりすればいいのかな。そうしたらもう少し違うんだろうか。

すてきなものを身に着けるという発想がない。わたしは気が狂ったようにBLを収集して読むけれども最近それも電子書籍に切り替えたので、なんとなくスピードは落ちている。電子書籍は紙書籍とは同時発売でないことが多いので。あと、紙でしか出ない本もあるので(もちろんその逆もあるが)。何故BLを読むのか、それももう最近あいまいだ。ただそこに夢を見ている気持ちだけはわかるのだけど、絶対に手に入らないものだな、ということが最近わかってしまって、夢を食べるのにもつかれたな、と思う。食べても食べてもおなかはいっぱいにならない。

ひとに会えば元気だ。会うのも好きだし、ひとのことも好きだし、たのしい。でもいつもわたしはこんなにからっぽで、と思う。こんなにからっぽで、これからどうしていくんだろう。仕事は好きだ。任されていることだってある。でも。なんでこんなに空虚な気持ちなのだろう。何を見ても、何をしても、いつもどこかむなしい。たのしくて、自分がからっぽなことがわかってむなしくて、さみしい。

これを書いていることに何の意味もなく、ただの甘えだろっていう声がどこからか聞こえてきて、そうですね以外の言葉がない。その通りです。

せめてメガネくらい見つかってほしい。そしたらちょっと元気出すから。