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雑多な日記

おやのこのこころうんたら

 先週、右上の親不知を抜き、今日、左上の親不知を抜いた。

「順番に抜いていきましょうね」と言われていたのを長いこと放置していたのだが、ここにきて歯が痛みだしたので、治療ついでに親不知も抜いちゃおう、としつこく歯医者に通っている。

 歯が痛くないってすばらしい。さっきから血がとまらなくてティッシュ噛んでるんだけど、それでもなおすばらしいと思う。歯医者に通えることがほんとうにほんとうにうれしい。

 保険診療の範囲内なので毎週通ったからとてたいした額ではないのだが、そのたいした額ではない、そのお金がしぼり出せない時期がずいぶん長かったので、ちょっとしたことで、ああ、と思う。ああ、わたし歯医者に通えてる、としみじみしてしまう。

 飲み込めず吐くしかない血は鮮やかできれいだ。

 谷崎にも血便の美しさを描いた短編があって、というか本題はそれじゃなかった気がするけど、そのシーンがあまりに印象的だったのでわたしの中では血便を美しく描いた話、ってことになってしまっているのだけど、不意にそれを思い出したりした。

 あと、本仁戻の「飼育係理火*1」で、ヒロが口の中にネジをいれられて殴られた末、奥歯を歯医者で抜いてもらって帰ってくる下りがあるのだけど、それも思い出した。血がとまらないついでにじわじわ口の奥が腫れており、ヒロもこういうかんじだったんだろうか、いや、ネジいれられて殴られるほうが間違いなく痛いよな、みたいなことを考えてしまう。

 わたしのなかに積み重なってきた物語はこうしてときどき、自分の体験と結びつく。結びつき、思い出しては、わたしの思考はずいぶんと物語が出張ってるんだよな、と思う。

 以前、かばんの歌会に遊びに行かせてもらったとき、「この作品にはすべて下敷きがあるのではないか」という評をもらったのだけど(かりものの言葉、という評ももらった)、それは間違っていないよな、と思ったりする。わたしの作品はわたしの血肉になった(なっているといい)物語が材料でそれが自分の感情や視点と結びつき、さらに物語化して出しているところがあるので、わたし自身の声かというと「?」と思ったりもする。少なくとも「かりもののことば」ではなくなったらいいなあ、とは思うのだけれど。

 ここ1か月くらい、すこしばかりしんどかったのが、過ぎていっている気がする。薬を飲んでいるからかもしれないし、変わっていくことをやめているからかもしれない。

 焦らずに行きたい。

*1:正しくは人偏に火