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雑多な日記

できることなら負けつづけたい

争いが苦手だ。臆病者なので単純に怖い。できることなら戦いは回避したいし、あわよくば負けたい。卑怯者だといわれてもぜんぜんかまわない。勝つことに価値を見出せない。同時にいろんな場面において、戦えと言われ、これからもっとこわいことが起こるだろうと脅され、そうやって戦ってこそ何かを掴みとれるのだと言われてきた。そうなのかもしれない。それは正しいのかもしれない。そうやって強く生きていけという励ましなのかもしれない。だけど、掴みとった分だけ誰かの何かを奪ってきたのでは、とわたしは思う。だったらいらない。そんなものは要らない。本当に本当に要らないのだ。

野心を持て、と言われる。多くは仕事において。あるいは創作において。でもそれもわたしは要らない。というより、もてない、のかもしれない、というようなことを今日考えたりしていた。仕事は自分が食うのに困らないのならばそれでいい。というような、ようは「向上心のない」考え方をしているので、自分の欲望を展望や野心としてきちんと外に向けて発信せねばならなくなると、ひどくつかれてへとへとになってしまう。わたしの欲望など、おなかがすいた、ねむたい、が基本で、ひとにお話しできるようなものはほぼないのだ。いま自分が屋根があるところに住んでいるのはうれしい。ふとんがあるのも。仕事があるのも。布のたくさんつかわれたスカートが手に入ってうれしい。うつくしい靴をはくとそれだけでうれしい。と書くとわたしの欲望がとても幼いことがわかる。

わたしの周りには幾人かのとても賢いひとがいて、わたしが混乱しているといつもすっと手を差し出して助けてくれるのだけど、今日もまたそういうかんじだった。

大人になるときっともっとみんなうまく自分の欲望と向き合うことができるのだろうと思う。周りを見ているとそう見える。それはただ、自分は何がほしいのだ、と問い、答えを見つけることができる、求めるままに動くことができる、ということなのだろうけれど、それがひどくむつかしい。むつかしくて、ずっとできない。

いまわたしがほしいものは、雨の日の朝寝と、目に入るたくさんのみどり、毎日たんたんと進む仕事と、すこしのお酒くらいのものです。猫もいるといいね。そういう夢想をしてはじめてすこしほっとできるのであって、戦え、と言われるとき、ぜんぜんできないよなあ、できない、と途方にくれてしまう。最低限の、自分のいのちを守る以外は、これでいい、と思ったりしている。戦うのは目の前で何かひどいことが起こったとき、起こりそうなときだけだ。というか、それくらいしかできないだろう、とも思う。姿の見えないものとは戦えない。

一年弱ぶりに病院の予約を入れる。自分でちゃんといれられたのでえらい。
10代のころからうつ病とはつかず離れずでずっと付き合ってきているので、こういうちょっとしたこともまた、いつものことか、というやつなのだろうけれども、まあそれでもえらいよね。

そんなこんなで、なんとかかんとか生きています。