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雑多な日記

報告4:夏になってしまう

明け方の雷すごかったですね。繰り返し近くに落ちるのはじめて。横になりながら、光ってから音が響いてくるまでの秒数を数えていました。小学生のころからついつい数えてしまう。

最近どうしているか、というと、結構どうもしていない。

村田充さんという俳優さんにはまり、舞台を見に行ったり、刀剣乱舞やったり、海外ドラマや映画を見たり、弱ペダ読んだり、って書いていくと消費しているばかりなので、何かをやっている、というかんじではなく。天気に左右される体調にあわせてわがままなかんじで働いたりしています。明日で半年間預かっていた仕事もひと段落するので一息つけるかな。

先日、日常のささやかな美しさを詠んだ歌について話す機会があって、その場で、歌会において「ささやかな美しさ」を描いたものをとることがなかなかむつかしい、というのを自分でもわけわからず感想として述べたのですが、その話のなかで気づいたのは、いまわたしはなんやかやと「作り」を見てしまっているのだなと。どうしても歌のつくりによる派手さ、というか、作りによって魅せられるかどうか、を見てしまって、それもひとつの観点なのだろうけれども、それって読めているといえるんだろうか、と複雑な気持ちになりました。

題材がささやかな美しさ、だったからなんだろうか。以前も同じように、別に悪いわけじゃないけれど、良いとも思わない、美しいとは思うけど、みたいなことがあって、そのときはよくわからなかったのだけれど、それもつくりがもう少し違っていたなら選んでいたのかな、と思ったりもして。ささやかな美しさを美しいとわたしは思うし、よくあるかんじにそういうものを好んだりもするので、逆に何故選べないのか、を考えていたのでした。

ただこれが震災について詠まれたものだったならどうだろう。あるいは人の生き死にについて詠まれたものだったなら。逆に「つくり」はさして大きな位置を占めなかったんじゃなかろうか。つくりだけ見て「これはいい!」と言うのも、内容だけ見て「これはいい!」と言うのも、アンバランスな気がして、読むってとてもむつかしい、などと思ったりしています。