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雑多な日記

どれだけ効くかわかりませんが

最近、わたしがかかっている呪い、もしくははしかでもいいんだけど、それをときたいと思います。わたし自身がとくわけじゃなくて、goo先生(辞書)にといてもらいます。

苦しいからね。余計な呪いはとっぱらっておくに限る。

現在、かかっている呪いは二つ。

①おまえたちのつくる短歌は短歌ではない
②おまえたちのつくる詩は詩ではない

というもの。

あともう一つはわたしにかかっている呪いではないのだけど、誰かが解こうとしても解けないのか不思議とふんわり存在しているので解いておきますね。

③批評している俺はえらい

この三つが主にある呪いです。



上から順番にといていきます。

まず、①おまえたちのつくる短歌は短歌ではない。

これは去年かかった呪いです。

短歌というのは57577の定型詩です。そうだと思って作っていました。でもそこに突然「短歌ではない」という言葉が飛び込んできました。で、わたし素直なもんですから(…)そう言われたことで、自分たちの知らないところに「本物の」短歌というものが存在しているのかもしれない、と思ってしまったのがそもそものはじまりです。

それ自体はいまになれば特別大きな何かだったとは思わないのです。
愛情のある言葉だったとも思います。かえるさん何度も言及してごめんなさい。いま責めているわけではありません。

何故呪いが深くなってしまったか、その話をしたいのです。

平たく言うと繰り返し繰り返し自分で呪いをかけていったのです。
それは呪いをどうにかして解こうと繰り返した結果です。

短歌ではない、という呪いを打ち消したい。でも打ち消せない。なぜなら何も知らないから。なにがどうちがうのか、なにをどうしたら短歌となるのか、わからないから。無知ゆえかかった呪いです。これきっともっと知識があったなら、真にうけることなくかからなかった呪いかもしれない。

でも一度かかってしまったら、「気にしない」という言葉では「短歌ではない」という呪いはとけないのです。

そこから短歌をやっているひとがいる世界に踏み込んでいったわけです。わたしを含め、一部の呪いにかかったひとたちは、その言葉の発せられたであろう世界に関われば、自分の短歌を短歌にできるかもしれない、と思った。(たぶん。わたしはそうでした。何故短歌ではないか、という理由を知りたいと思った。)

歌会に行ったり、いろいろなひとと話しをしてみたり、投稿してみたり、本を読んでみたり、いろいろしてみた。

それでようやくわかったのです。

短歌にはどうやら流派? 宗派?のようなものが存在し、かつ短歌を介してコミュニケーションをとるという空間が存在し、かつ個人個人で短歌観が違うということ。

短歌、といわれているものは多種多様であり、わたしの思っていたような「短歌の世界」は存在していないということ。

あるのは個人のなかにある「短歌」という思想。それが長い歴史を受け継いでいたとしても、それはあくまでも個人の思想です。
あとコミュニティ。コミュニティは確かにある。あるけど、それは「短歌」そのものではない。「短歌をやっているひとのコミュニティ」です。

そこで成り立った共通認識によるとわたしたちの57577は短歌ではない、ということになることもあります。

その事実に気づいたとき、たぶんわたしはもう一度自分を呪った。
どんなに頭で、短歌にはいろいろある、ということをわかっていても、瞬間的に「これは短歌ではないのだ」と自分を呪いました。

呪いっていうのはそういうものです。一度かかった呪いの正しさを証明するためにさらに呪うのです。

でもここから呪いをといていきます。

短歌をやっているひとのコミュニティのなかで「短歌ではない」といわれたとしても、短歌ではないわけではないのです。

繰り返します。もう何回でも言う。

短歌をやっているひとのコミュニティのなかで「短歌ではない」といわれたとしても、短歌ではないわけではない。

ここでさらにgoo先生にご登場いただきます。

短歌(たんか)
和歌の一体。五・七・五・七・七の5句31音からなる歌。発生については諸説あるが、万葉時代には成立し、平安時代以降、長歌・旋頭歌(せどうか)などがほとんど作られなくなり、和歌といえば短歌をさすようになった。みそひともじ。みじかうた。

五・七・五・七・七の5句31音からなる歌であること。それが短歌だとかいてあります。
だからそこになにをのせて、たとえばそれが散文のようなものだったとしても短歌です。
短歌っていったら短歌です。

ただの57577だと言われることがあったとしても、短歌です。絶対にそうです。

もし共通認識を得たいと思うなら、短歌をやっているひとのコミュニティにずんずん進んでいけばいいし、入門すればいいのです。

でもはたして自分はそれをする必要があるだろうか? そうする必要がないと考えるなら、いま、持っているもの、感動、歌おうとしているもの、それを57577の調べにのせて表現するだけで、全て短歌です。

すごい当たり前のこといっちゃったけど、これ本当にいまのわたしがかかっているのは、自分の呪いの正しさを証明するための呪いです。だから辞書の言葉でわたしは上書きしたい。

短歌(たんか)
和歌の一体。五・七・五・七・七の5句31音からなる歌。発生については諸説あるが、万葉時代には成立し、平安時代以降、長歌・旋頭歌(せどうか)などがほとんど作られなくなり、和歌といえば短歌をさすようになった。みそひともじ。みじかうた。

どうだろう。

最後にもう一回言います。

短歌をやっているひとのコミュニティのなかで「短歌ではない」といわれたとしても、それはわたし(たち)の短歌を「短歌ではない」と定めるものではありません。まったくもってそういう力のあるものではありません。




次いきます。
『②これは詩ではない』

そもそも詩とはなにか? ここでもまたgoo先生にご登場いただきます。

1 文学の様式の一。自然や人事などから受ける感興・感動を、リズムをもつ言語形式で表現したもの。押韻・韻律・字数などに規定のある定型詩と、それのない自由詩・散文詩とがあり、また、内容から叙情詩・叙事詩・劇詩などに分ける。
漢詩のこと。

これさ、もう、これだけで呪いとける気がしない!?

感動を自分のことばで、自分のリズムでもって文章を書いたならそれは全て詩といえます。論理的な文章だったとしても、もしそれが感動を言葉でもって、ある一定のリズムで表現したものであれば、それは詩です。

もし、わからない、とか、これは詩じゃないといわれたとしても、そんなはずないのです。

さてそこで、詩を音読してみよう!

アラマせんせいってご存じですか。
アラマせんせいっていうのはゲンゴロウさんという人形をつれてパフォーマンスをする方なんですが、
いま調べたら2012年にお亡くなりになっていました…わたしだいすきだったので、つらい……

話しがそれました。
アラマせんせいが舞台でやっていた詩のパフォーマンス。
きりなしうたというのがあるんですが、ちょっと引用してみます。
この詩自体は谷川俊太郎さんのものです。

 きりなしうた お風呂編 谷川俊太郎 

はやくおふろにはいってよ タオルがないからはいれません
ぞうきんかわりにつかったら? ぞうきんねずみがかじってる
となりでねこをかりなさい ねこはグーグーひるねです
ひげひっぱっておこしなさい となりのねこにはひげがない
マジックペンでかけばよい 赤しかないからかけません
スーパーいってかいなさい おかねがないからかえません
ちょきんをおろしてくればよい おなかがいたくていけませーん 
そんならさっさとねちゃいなさい でもまだおふろにはいってない

音読してみると、すごく気持ちがいいです。
ただの会話文です。ぐるっとまわる会話文。
リズムをつけて読むとさらに気持ちがいい。

さらになんでもいいんですが、手元にある小説。
あなたの好きな一節を抜き出して、読んでみるとどうでしょうか。
それだけで詩のような気がしてきませんか。

それくらい詩って自由なものです。自由というのは、不自由さえも取り込むものです。
(不自由のうえに自由があったりもするのですが、ちょっとおいときます)
だからもしあなたの書いたものが詩ではない、といわれたとする。
でもそれはその読んだ人の受け皿が受け止めきれなかっただけです。詩である、という風に受け止めきれない。だから「詩ではない」という言葉が投げられます。

でも呪いはとけます。

あなたの書いているもの。それが何か胸のふるえを、あるいは言葉のふるえをかいているんだとしたら、それは詩です。詩という成分は多なかれ少なかれもともと言葉のなかにはいりこんでいて、一般的に詩とされるものじゃなかったとしても、突如詩になることがある。

そういう変化が可能なものです。
詩は誰のものでもありません。詩は自由に開かれているものです。

それがたとえば、えらい誰かに評価されなくても。身近な誰かに理解されなくても。
詩は評価される、されない、なんてところにはいません。
詩は食べていくためだけに存在するわけじゃありません。生きるために存在する場合だってある。呼吸するように詩のことばをつむぐひとだっている。わたしはそういうひとを何人も知っています。
詩は自由なものです。自由は不自由も内包するものです。いくらでも変化が可能なものです。

だから詩は形がないといってもいい。詩である、詩ではない、などと定められるところに詩はいません。

どうだろうか、すこし呪いはとけてきたかなあ。



最後の呪いは…余計かもしれないけど書いておくね。

③批評している俺はえらい。

これ盛大な勘違いだから!!!! 言っとくと!!!
人に対してえらそうにしてたら、それ批評してるんじゃなくてマウントとってるだけだと思ったほうがいいよ!!!

批評というのは、自分の読んだもの、受け取ったものを「(わたしは)これはこういうものだと考える」というのを誰かに向かって差し出すことだと思います。

ここでもgoo先生に頼ります。

批評(ひひょう)
物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。

指摘すること、自分の評価を述べるときにえらそうにする必要はありません。
もしひとを殺すような態度で行けとでも教わるんだとしたらそれは捨てたほうがいい、とわたしは考えます。
もし殺すんなら発言する内容で殺したほうが良いと思います。

あと相対的な正しさなんて別に求められてないから。自分がどう考えるかだから。どんなはちゃめちゃな批評だといわれたって、自分の中に生まれた批評なんだとしたらそれがあなたの批評だということです。相対的に未熟だとされることがあったとしても、です。

批評は読み手と書き手が向き合うことです。書き手に対して、それから作品に対してマウントをとるために存在するのではありません。作品を真ん中において、それについてどう考えるか論じるためにあるのです。


表現をけなされたり、伝わらないとか、わからないって言われれば腹がたつかもしれない。
それは、持っている前提が違うのです。感受性の種類の違いといってもいい。
感じ取れないひとに対してどう伝えるか。それはその人が感じ取れる言葉選びに変えるか、前提を教えるか、なにか他にも方法はあるのかもしれない。でもそれをする必要はあるだろうか? そこは人それぞれ違うと思います。

と、いろいろ書いたけど、どうだろうか。大分、呪いとけてきませんか。

でさ、いま書いているこれだってひとつの宗派の何かだと思うわけです。
個人の考えだってことです。

最後に技術の問題。

技術は何かを伝えるためにとても便利なものです。道具のひとつです。でもそれだけです。道具は便利なものだけど、たとえばのこぎりがそこにあったとしても、椅子を作りたいという気持ちとそれを作るための材料がなければ椅子は作れません。それと同じようなものです。のこぎりがなくても椅子は作れる。そういうことを大事に個人的にはBL短歌をやっていきたい。のこぎりに囚われる必要はない。でものこぎりあったら便利だから、手に入れておくのもいいかもね、ってくらいの話なのです。それもね、もしかしたらのこぎりに代わる何かが世界にはあるのかもしれない。そういうのを探していけばいいだけの話です。


わたしは誰かの短歌は背負えません。だけど自分の短歌は背負っていきます。BLのことは胸に抱いて丘に登ります。

呪いがとけないひとにはもういくらでも言う。あなたの呪いがとけるまで、あなたの短歌は短歌です、あなたの詩は詩ですと上書きします。ふざけた態度で批評するやつはぐーぱんしてやる。

呪いをとくってたいへんだけど、でも呪いはとけるから、いくらでもくりかえし言う。
どうかなあ、とけただろうか。