flat

雑多な日記

いくつかの整理

12月頭の週末、実家に帰った。父のお世話になっていた病院に挨拶にいくためである。母はなかなか一人では、と言い、わたしも山の上にある病院を目指しながら、雪のなか兄とともに病院へ向かった景色を思い出してしんどいものだなあと思ったのだった。

ひとが一人いなくなる、ということは大変なことであるよなあと改めて思う。

悲しいさみしい、とかそういう感情だけでなく、そのひとがもういないのだ、という事実に慣れていくには時間が必要で、生活ががらりと変わるかというと、否応なく変わってしまった、そのことになかなかついていけない。わたしは東京で暮らしているから、ある意味では実家に帰ることが非日常であるけれど、母や兄にとっては実家の生活が日常であるのだから、わたしよりもずっと変化は大きいだろう。

それでもお世話になっていた先生にきちんと挨拶にいけたことはよかったのだと、そうだ、よかったのだと思いながら家に帰った。

病院でこんなことを聞いた。「亡くなったひとはいなくなったのではなく、これからもともに生きていくのです」。きっとそうなんだろう。仏壇に向かって自然と「親父さん」と話かけている自分がいる。コーヒーを入れれば父の分も、ワインをあければ、小さなワイングラスに一杯、お菓子をもらえばまずは仏前に。そうすることで存在を(存在があったことを)確認しているんだろう。

東京に帰れば、お父さんどうしているかな、とふと思って、ああもういないんだった、と思うときもあれば、宇宙旅行に行っている夢を見たりもするから、どうしているかな、の問いの先に返ってくるものは喪失だけではないのだ(と思いたいのかもしれない)。

11月からわたしはほんの少しおやすみをいただいているわけだけれど、最近やっと休むことにも慣れてきた。こうしてなんてことはないことを書いたり、本を読んだりしつつ、何をしていくのか、ということを少しずつ考えたりしている。それから、こうして文字になるときにはやっぱりすべて終わった後なのだ、と思う。すべて過ぎて、少し時間がたってから、あるいは解決されてから、でなければ文字にはならないから、「いま」を書き留めることのむつかしさを思う。

さて、これからなにが出るかな。まだわからない。