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雑多な日記

母型

祖母の家にきている。日常を守ることを具現化したような、そういうものを目にして、わたしにとっては非日常だと思った。ひとりだと誰かとの暮らしを守るって感覚はあまりないし、わたしは実に享楽的に生活している気がする。気がする、というか、実際そうだ。

夕飯のあとひとりでテレビを見ていたら、豊島という場所へ旅する映像が流れていた。現代美術にちからをいれているところのようで、なんというかいろいろたまらんかった。語りたいけど語る言葉がないというか、ことばの表現でないのになぜあんなにも雄弁なのだろう。自分のなかで読み解ける、すっと感じるものがあるのは現代に作られたものだからなのかもしれない。このことばをわたしは知っている、と思う前にいまといままでとこれからを同時に感じているというふしぎな感覚。
ひとはなぜつくるのか。
なんのために。
これは本当に必要であるのか。
そういう問いかけを続けているけれど、イ・ブル展をみたときと同じような感覚で、芸術は必要だと迷いなく思った、のはどうしてなんだろう。
静寂、沈黙、のなかの雄弁さ。言葉を持たずに語りかけてくるつよい問いかけや祈りのようなもの。生活で使うものではないけれど、それを要らないとは思わない。

うつわも同じ。機械で作ったものとひとが作ったものでは大きなちがいがある。だからやっぱり必要なんだ、っていまは思える。こんなにものがあふれているのに、ともやっぱり思うんだけど、でも必要だ。それは原始的な、祈りを必要とする前に既に祈っている、のとおなじようなかんじで。

「わかる」「わからない」という溝を越えるためにどうしたらいいのか、と考えはじめたけど、それは相手を信頼するだけでいいなと思った。いま必要なのは確かな技術を身につけること。
わたしが技術にこだわるのは、それが深層にアクセスするための鍵だと思っているからです。いまをもって、いままでとこれからを旅するための方法。考えるより先に行くためのもの。