生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

いま

1年前、何をしていただろうと過去の日記を振り返る。地震のあとで考えが揺れていることは見てとれるけれども生活の中心はそう変わっていない。仕事と陶芸とときどきのお酒。今もそう。
ただの日記も自分との対話をするのには役に立つ。1年前はそう変わらないが、2年前、3年前とさかのぼっていくと自分の弱さがみえてくる。わたしは泣いてばかりいたのだなあ。誰かを失ったといえば傷つき、外の世界と関わっては傷つき、何気ない言葉に傷つき(これは今も)、花が散ったといっては傷つき(とは書いてなかったが)、外の世界にある痛みや喪失を自分と共振させることで存在の方法を探していたのかもしれない。悲しむことが生きることのような。悲しんでいる自分が一番悲しいというか、悲しんでいる気になっているだけというか、勘違いだったんじゃないかとも思う。そのなかのほんのすこしの「ほんとう」だけがいまも胸にある。
悲しみはさみしくて、胸の内々にあるもので、外にある悲しみはあくまでも外にある悲しみだ。胸の内で悲しみという感情だけが大きくふくれあがることは少なくなったが、それは鈍くなっているからなのか、強くなっているからなのか、悲しむ内容が変わったからなのか、わからない。大人になるってこういうことなのか? 
一万年先にたどりつくためには今日を生きなきゃいけない。朝、満員電車に揺られて会社に行き仕事をする。やることをやって夕方には帰るか、お酒を飲みにいくか、教室に行く。長く続けて少しものがわかってくると仕事が増える。きついと思うこともある。でも慣れる。
今の会社は2年くらいだろうと思っていた。けれどまだいる。本来の仕事ではないこともやっている。憤ることもある。泣きたくなることもある。とはいっても毎日そこそこ楽しい。今のところで学ぶことはまだあるだろう。同時に会社の中だけでは学べないこともあると思い始めていて、学校というわけではないのだけれど、もうすこし、仕事とは違う、学ぶ場がほしいなと思ったりしている。
わたしはどこへいくのかなあ。まだ目的地はみえない。