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雑多な日記

還元

2012年陶芸初め。
帰ってきてから鈴木心さんのサイト*1を見ていたのだが、下の言葉にああ、ほんとにそうだよなあと思った。

写真をやっていて思うことは、自分が納得したモノをただ単に出していくことが大切なのではなくて、社会の中で発表した上で社会の中でどれだけの価値があるのかということが、ひとつの指針になると思っています。写真においては、自分が正しければOKという写真が沢山あって、それなりによく見えるのですが、結局残っていかない。

これは写真に限らず「ものをつくる仕事」というものについていえることじゃないか。自分のしていることが周りにどんな影響を与えるか。与えられるか、というじゃない、与えてしまうかということ。作りたい、と思って作る。作るのはいい、けど作りっぱなしじゃ、と思う。使い捨てにするのなら、だったら作らないことを選んだほうがまだいいんじゃないか。何のために作るのか、何故それを作るのか。最近、作ることって無条件に褒められるようなことではないんじゃないかと思っていて(今更かもしれないけど)、クリエイティブとかいうと聞こえはいいけれども、それにごまかされちゃならないというか。わたしは物を作ることはすばらしいことのように思っていたけど、そんなことはなくて、作ることが本当に必要なのかどうか、考えた上でやらなきゃいけないんじゃないか。いけない、っていうか、そうしたい。自分のしていることがどういうことなのか自覚したうえで、やるかやらないか、出すか出さないかを選びたい。今日も土にさわりながらそんなことを考えていたので、ああ、と思った。うまい下手の話ではなくて、物事との向き合い方の話なのだろうとも思う。作ったものに魂や命やこころや、名前のつかない何かが宿るかどうかは、上手い下手じゃないと思う。
作ることもまたプラスにもマイナスにも転ぶことで作ろうと思えばどこまででも作れてしまう。やれてしまうし、なんとなくでもできてしまう(たぶん)。けどそれって別に物が作れているわけじゃないのだ。あ、出ちゃった、ってだけで。それがどんなものかもわからずに。
だから選びたい。きちんと自分の頭で考えて、何故作るのか。わたしはものをつくって生きていくのだと思う。だからきちんと考えていきたい。作ること。そのものについて。具体的にこれから何をしていくかについて。