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雑多な日記

20110926

そもそも何故作るのか、ということをかんがえている。

といっても今生きているひとの中で何も生み出さずに生きているひとのほうがめずらしいように思うわけで「作らない」選択をするほうが難しい気がする。「ものづくり」の定義?をそこまでひろげてしまうと生きとし生けるものすべてが創造的な生き物で、ものづくりイコール生きるイコール食べるイコール呼吸、全部が輪になってつながっていく図のようなものを頭の中でぼんやりぼんやり。原始的。細かく分岐する前の曖昧なかたまり、命や空間について考えているのと同じように思うが、もうすこし細かく限定した「ものづくり」について考えようと思うと、ほとんど考える必要はなくて、「ほい、じゃあやってみましょ」という話になっちゃうので、それじゃあちとちがう、と戻ってみるとやっぱり概念的になってしまう。

霞を食らって生きるのかと言われてしまいそうな話。

9月はお休み期間としたせいか、方々の作るペースは落ちているが、あらためて、本当に自分にとってものづくりは必要なのだろうかと考えるよい時間をもらっている。この豊かな時代に新たにものを生み出す意味ってなんだろうか。ものづくりを通して自分をわかってもらいたい、という欲求はほとんどといっていいほどない。ならばなぜ作ろうと思うのか。いっそやめてしまってもよいんじゃないか、と思うときもあるが、そういう選択をすることはないのだろうなあとも思う。

種を抱えている。自分について、周りについて、世界について。それがどう芽吹いていくのかなあとひたすら夢想している。これはわたしの夢なのだと思う。つないでいく。つらなっていく。前に、後ろに、細く長い糸。そういうイメージが浮かんでは消える。

それにしてもさっきから子供たちにつきあって大神の攻略をやってるんだが、子供の会話っておもしろいなあ・・・笑