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雑多な日記

タンブラ

タンブラ

を、ちょっと使ってみて思ったのは、わたしはわたしの存在を世界のどこかにただ残しておきたいのだなと思った。言いたいことがない、伝えたいことがない、と思っていたけれど、そう思いたかっただけで、こうして文字を書くのも、何かを作るのも、写真を撮るのも、結局「わたし」をどうにかして世界に焼きつけようとしているだけなのだ。感情としてというよりも、なんだか存在という概念的なものを空気に向けて、空間に向けて、世界に向けて、ただ存在している、ということについて。世界が在るということについて。そんなんわざわざかたちにしなくたって、って思うのにね。だって目の前に在るのに。だけどそこにも疑いがある。
「土を焼くってすごいですよね、だって残るじゃないですか」
Kさんがそう言ったとき、その瞬間にはあんまり何も思わなかったんだけど、そうだよね、残るんだよ。なんかそれってなんか。
自分の気持ちを、言葉を使って上手に伝えられたのなら、わたしは何も作っていなかったかもしれない。もっと自分に自信があったのなら、いや、生きてきた道に誇りはもってるんだけど、存在に対する疑いがなかったら作ってなかったかもしれない。わたしはなぜここにいるのか。本当にいるのか。いる、と思い込んでいるだけで、本当はただの粒子のような、粒子でさえないかもしれない、じゃあわたしってなんだ、みたいな問いが積み重なっていく。
書くこと、作ることはわたしの何かをうめていくような作業だ。自分の中と外でのずれをうめるための。自分をかたちづくるための。かためるための。強がっても、実際強くなっても埋められない、もろい部分。大きくぶれた部分。ぶれる部分。そういうものをなんだかかたちにしたいのかもしれない。心の底に小さなわたしがいて、その小さなわたしが一番声を大にして、ここにいるここにいると叫ぶから、それが全部にあらわれる。
ふーちゃんが前、ゆこの作るものには全部ゆこが出るといっていて、それはまさにこういうことなのだなあと思う。伝えたいことはない。ただそこには「わたし」があるのみ。ただ在るのだと、そればかりをわたしは言っているのだなとなぜかふとさっき思った。
生きたい。在りたい。
それだけで物を作るのは危険じゃないだろうか。だって独りよがりになってしまいやしないか。わたしはわたしのためだけに作るのか。いままでも、これからも?

そんなことを考えている。

爆発しちゃえばいいのだな、きっと。突き抜けてしまえばいいのだ。ほんとは。