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雑多な日記

切り取れ、あの祈る手を/佐々木中

何といったらいいだろう。
本を読むこと、繰り返し読むこと。本に書かれていることを読み解き、書き換えることについて徹底的に語っている。書店に並ぶ数々のノウハウ本や思想家たちの言葉を都合よくパッキングして売り出していることに対する批判、そういうものがひとびとに与える焦燥と「わかりやすさ」を餌にお金と考えることを搾取している流れ、「終わる」ことに対する漠然とした不安にかられ情報を収集することで安心を得ようとしていするひとびとに「まだ終わらない、何も」と彼は自ら「読み」、「書く」ことで示そうとしている。世界はこれからも変革する。そのはじまりが読むことであり、書くことであると彼は言っている。
文学は昔、いまでいう「リテラシー」にあたるものだった。未知のものを読み、書き換え、本にする、その技法そのものを「文学」といった。読むこと、書くことは世界のひみつに触れることであり、同時に己の無知を知ることでもある。なにも知らないことを知ることであり、全てを知ることはできないことを知ることでもある。知りたいと思っていること、知りたくないと思っていること、自分自身に気づくことでもある。
彼は今自分が生きている地平を果てしない情熱とともに歩き、「これから」を思い描いている。文学は終わらない。世界は終わらない。何も、終わらない。
人は読み、書く。説明のつけられないものを、わけのわからない、理解できない、でも確かにその目に映った世界を読む。それは日常であり、繰り返し訪れる朝でもある。その朝をわたしたちは生きている。いつかの瞬間まで続く日常を、「わたし」が消え去っても続いていく「あなた」の日常を、わたしとあなたが生まれる前に存在していたはずの誰かの日常を歩んでいく。そう、歩んでいくのだ。一歩。横にでも、前にでも、時には後にさがることもあるかもしれない、でもそれが何だというのだ、歩んでいる、その足に何のかわりはないだろう。時に足が消えたように感じる瞬間があるだろう。世界が失われたように、すべてが終わってしまった、と絶望に打ちひしがれることも。だけれどそう思うこと、すでにそこには世界がある。そのとき本当に失われているのは何なのか?
佐々木さんの言葉は薬であり毒でもある。彼の言葉が必ずしも「正しい」わけではない。繰り返されるいくつかの印象的な言葉と言い切ることから生まれる力に圧倒され、見誤ることもあるだろう。
願わくばこの本がいつまでも孤独であるように。

誰の手下にもならなかったし、誰も手下にしなかった

これが守られてこその、この本の価値であると思う。