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雑多な日記

おもうこと

自然の中で生きる。名を手放し、なにものでもない「わたし」で在るということ。名を手放すというのは、両親から与えられた名前を手放すことではなく、家族や友人という周囲の関係から離れるわけでもなく、いつどこにいても、なにもない、なんにももっていない自分であるということを知るために、おまえの目は見えているかと自問すること。成るのではなく在るための日々を積み重ねていく。たとえば地位、名声、お金、かたちのみえるわかりやすいもの、人の作った価値に振り回されず、世間の風潮に思考を停めず、けれども人の作った社会に身を寄せながら、大きな一本の線のなかの点のひとつである「わたし」と向き合う。
自然の中に生きる。山にこもるのでも、海にもぐるのでもない。田舎も都会も関係ない。ただ自分のいる場所、今暮らす場所、そこに立ち、あるいは座り、時には寝転がって、無限に広がる空間に耳を傾けること、目を向けること、においを感じること、空気に触れること。こころをふるわすこと。笑うこと。泣くこと。あなたがいなくなってさみしい、会いたいと思うこと。さみしい、かなしい、たのしい、くるしい、つらい、うれしい、幾重にもこころをふるわすこと。
表現。何かを作ることが表現ではない。赤ん坊の笑うこと、泣くこと、それがなによりもの表現だと感じる。書かない道も在り、言葉を持たない表現も在る。書くことは特別ではなく、賛美するようなものでもなく、己の卑しさを美しさにとってかえてはならない。書くことはときどき卑しい、書いているわたしが卑しい。けれども書くことをやめない。書くことは自分にとってすごく大事なもの。言葉を大切だと思う。すごく好きだとも思う。こわいものだともおそろしいものだとも思う。それでもやめない。書いたものが自分の元から離れて遠くへいったとき、その点の小ささに、おお随分遠くまで、という喜びもある。
生。名も知らぬ誰かの無事を静かに祈る。自然の中に在って今を積み重ねていく。周りへの感謝と無限の存在に自分を手放してしまわずに、夜の淵に眠って、深く深く、肺の奥まで酸素を送り込む。