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雑多な日記

悟りは遠い

ってそりゃそうなんだけど、自分の泥っぽさをあらためて知る。



たとえばおなかがすいてたりお金がなかったり 時間に追われて余裕がなかったり 憤ることがあって人をどうしても許せなかったりしたとき。言葉遣いがあらくなるときはたいていそんなとき。ずるいことを考えるのも、してしまうのもそんなとき。



人間だもの、そんなときもあるさ というのは当たり前すぎるほどに当たり前のことで だけれどいつかの瞬間のために毎日を紡いでいたりもするわけで、それに人間の俗っぽさを自らよしとしない人もいて、だから傷つけてしまったのだし(それは生き方や日々を全て否定されることと同じだ)。みんな同じじゃないのだ。感じたとしても言ってはいけないことがあることをいつもいつも己の失敗をもって知る。人と自分が同じ風に感じるわけではない。同じ考えで生きられるわけでもない。それはわかる。そのことをそのときに気付けたのならなにかできることがあったかもしれない。





最近 世界の器はそう小さくないのだとあらためて思った。人間が小さいだけで。



それだって耳をすませば気付けることも、手をめいっぱいひろげれば掬えるものもあるから 今の自分に何ができるかを考えてやっている、つもり。

大きなことじゃないよ。身の回りのこと。

できることもそう多くはないし、自分のペースじゃないとなにひとつできないけど、ひとつずつ。

おはようとおやすみ、いただきますとごちそうさま、ありがとうとごめんなさいを繰り返すなかで。