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雑多な日記

無理をしなくなった

 ピクシブ、いろんな絵を見られるのがとても楽しい。


 復活ということさえもあまり意識せずにいるんだけど、今の、サイトを動かさず、こうやって細々書いてる状態というのは自然。何を無理してたんかなーとぼんやり思う。まあ、奇妙な自意識があったんだろうな。みみっちい、つまんないかんじの。

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 エンターテイメントを書ける人というのは言葉を操る力のある人だと思う。言葉を使って自分の作り上げた世界を描く。それはすごいことだ。

 わたしは言葉だけじゃなくて世界に対しても、目の前を流れる川みたいな印象を抱いていて、わたしがそこに関わる方法としては、飛び込むしかないので、こればかりは挑戦どうこうとかって問題じゃないなと思う。努力することで自由自在に激流の川を泳げるようになる、あるいは川の流れを操れるようになるかっていうと、その前にわたしの場合は溺れ死ぬ(笑)。だから川の中ですることというと、言葉(物語)を掬い取りやすくするためにこっそり網をはる方法を覚えることなんだろう。わたしのやろうとしていること、やっていることは創作とも違うのかも。

 ここ数年で出てきた作家の一部分を見ると、何故あんなにも饒舌なのだろうと思う。言葉を操る力のある人たちだなあとも思う。舞城さんはその走りだと思っていたけど、どちらかというと西尾さんがその走りなんだなあ。

 昨日、化物語をやってたのね。
 絶望先生のOPを彷彿させる映像で、言葉を文字として全面に押し出したアニメで、「ふーん」というかんじで見たんだけど、なんなんだろう、アニメという枠の中にさらにもう一個バーチャルな世界を作ったかんじだった。箱の中にある箱を箱の中で見てるような感覚。テレビを見ているわたしを囲んでいるわたしの部屋、その部屋のある世界がさらに大きな箱のようなもので、その外から見てる人いるんじゃね、みたいなさ。

 自分がどこに生きているか、ってことをちゃんと両足で確かめていないと、わけがわからなくなる世界だ。情報があらゆるところから入り込んでくるから、すぐ目が眩むよ。情報の取捨選択を覚えたいな、と思う。じゃないとあっちゅーまに溺れる。