生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

境界の向こうとこっちで毎日ライブ

 記紀が成り立つ前の書物、ふーちゃんからおすすめされた「秀真伝」をこれから読もうと思うわけでございます。日本民族のはじまりを超古代にまで遡って考えてみよう、というかんじではあるんです、が!



 不意に屋久島の縄文杉を思い出しました。

 縄文杉は樹齢3000年といわれている老樹です。



 数年前に母と屋久島に住んでいる母の知人と一緒に見に行きました。縄文杉までは歩いて片道5時間弱。夜明け前に家を出て、ほの明るくなってから山に入りました。屋久島の天気は変わりやすく、霧も多いと聞いていたのですが幸いにもその日は快晴で、わくわくしながら歩いたことを覚えています。道があるのは最初のほうだけ、あとは木々の枝に結ばれた赤や黄色のリボンを頼りに進むわけですが、途中にはウィルソン株もあり、切り株の空洞にすっぽり入って空を見上げたり、と大自然にかこまれて、うひゃっほー! って気分でした。そうやって山の自然を楽しみながら疲れ知らずに歩いて、お昼前に縄文杉にたどり着いたわけです。

 

 でも、いざ縄文杉さんこんにちは! ってお邪魔した瞬間に、すみませんって思いました。

 杉はすばらしかったんだ。本当に立派な杉でした。立派っていう言葉が合わないくらい立派だった。ただ、縄文杉はだいぶご老体でした。本当にね、ご老体、というかんじなの。おじいちゃん。



 屋久島はちょっとしたブームにもなっていたし、わたしが歩いているときも、それから縄文杉にたどりついたときも、たくさんの人がそこにいました。



 あの杉は本来なら、人間の時の流れとは別のところで、ゆっくりと、静かに命を終えていくはずの老樹だったのではないか。



 そんなことをぼんやりと思いながら、見事すぎる杉の傍らでおにぎりをほおばったわけです。



 屋久島の森に入ると、なんかね、ほんとにもうどうでもよくなっちゃうんだ。わたしがこうやって考えてることとか本当にどうでもよくなっちゃうの。目の前に広がるものに圧倒されるばかり。「人ってのはなんて小さいんだろうなあ」というのも、帰ってきて人の生活をしているから思うのであって、あの瞬間には何にも考えてませんでした。ただただ、はー、というかんじ。



 またいきたいなあ。

 屋久島には正体のわからない恐怖のようなものを感じない。

 正体のわからない恐怖っておそらく人間の朽ちる気配だ。物や自然が終わりに向かうのとは違う。わたしは人間なので、同じ人間の気配はやっぱりこわい。京都にせよ、沖縄にせよ、歩いていて漠然と「あ、こわい」と思うのってたいていそういう場所。お墓とかそういうことでなくね。