生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

なんとかは

 風邪ひかないといいますが。夏風邪はなんとかがひくともいいます。というわけで風邪っぴきです。胃のむかむかと寒気ダブルパンチ。冷房にやられました。あおん。



 中上健次の「岬」を読む。

 村(あるいは家族)に属している自分の個(自己)を考えている、自分にもよくわからない正体不明の自己を探しているように思った。主人公の目をかりて作者が小説という名の自分の生きる世界と良く似た世界に飛び込んで、作者自身も先が見えない状態で歩いているようにみえるので、読者は外から眺めるしかない。動物園で動物を見るときみたいに、色も匂いも音も存在もあるのに触れられないという状態で、映像だけが流れていって気づいたら話が終わっている、というか読むところがなくなっている。作者になれるのは作者だけなので、そりゃあそうなんだけど、いまいち感情の流れや何が起こっているかってことが思い浮かべられなくて。何度か読めば感想も変わってくるかな。

 読んでいて舞城王太郎を思い出しました。「岬」のスピードをあげて文字から伝わる感情の矢印を外向きにすると舞城さんって、それはつまり別人ってことだけれども、中上さんは自分の中に世界があって、舞城さんは自分の外に世界がある。でも血の繋がりや性や暴力(や愛)という意味ではテーマが一緒なのかな。中上さんは自分にもぐった結果が作品で、舞城さんは黙っていられないほどに外に向かって叫びたいことがあるんだろうと思う。大声で叫んで意味を伝えるには言葉や筋をわかりやすくするに限る。ので、舞城さんはいつもテーマも含めて読者に親切すぎるほどにわかりやすく書くけれど、そのおかげでわかったように感じてしまうときがある(というのは以前も書いた)。



 舞城さん読みたいなー。新作まだ読んでない。