生活🐌の記録

いるようでいない、いないようでいる

最大公約数

 人が一人の個人として存在するには他者の存在が必要なのではないか、なんて。



 最近中村うさぎばっかり読んでるからですな、こういうのは。

 彼女の本は基本的に他者を通して己を見、分析し、その時点で気づいたことを書く、というものですが、テーマとして挙げられる問題は必ずしも彼女ひとりの問題でなく、時代や社会の中で生まれた問題であることも多く(いや、そもそも人間に性別があることから生まれた問題? なのか? 女が女である故の自意識とか)(ここ数年、はやり言葉のように自己責任という言葉を聞くけど、自己責任に任せられる問題と、そうでない問題とあるのではないでしょうか、問題に対して答えが一つ、などという単純な時代は人が生まれてから一度だってあったんだろうか)、己を差し出し、考え、そこで出た答えのようなもの(それとて一瞬)を文章とし、公開することで今の時代に生きる人が抱える問題に一つの考えを提示しているのではないか。そんな風に思って読んでいます。



 宗教学(民俗学寄りの、土俗の信仰)か社会学をやりたいなあ。

 わたしは学歴で人間性を決め込むような人がきらいなので(つまり差別がきらいなんだ)、勉強がいやになって高校を辞めてから、そういったものには属したくないとは思ってはいるんだけど、体系的に勉強するには大学いったほうがいいんかなあと思う。個人でやってると偏りがでてくる。一度くらいがつんと勉強したほうがいい、というのは確かにそうなんだよな。座学で身につけられる知識は、働いて身につけられるものとはまったく質が違う。



 わたしが働くのが好きなのは、会社という組織に属し、働いているなかで時代がありありと見えてくるからです。自分の肌で感じたものはある意味の事実なのだと思う。これだけうそかほんとかわからない情報が氾濫するなか、何を選び取っていくか、それは課題です。



 新聞とろうかなあ。