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雑多な日記

さよならさんかくまたきてしかくとなんどかいただろう

下手と思うのは卑屈なわけでなく、事実から目を背け過剰な自信と勘違いに己がつぶれたことがあるからだ。目を背けたくとも、逃げたくとも事実はそこにある。写真はわたしにとってまさにそうだった。ちょっと自分は人とは違うものが撮れるんだ、みたいな傲慢さがあった。実際自分はやっている、努力している、という自信があった。そういう「がんばっている自分」に憧れてもいた。ほんとはそんなことなかったのにな。狭い世界で天狗になっただけだ。自分がたいしたものを撮れないと知ったとき、あたまでっかちな技術ばかりのそれだと気づいたとき、周りにはすげえ人がたくさんいるのだと身体で思い知ったとき、あんなに好きで好きで夜通し暗室にいたって平気だったのに、ぱったりとやめてしまった。結局わたしは写真が好きだったのか、いや、好きなのか、好きじゃないのか、いややっぱ好きなのか、今はちょっとわからない。でもあのときわたしにはそれしかなくて、そう思うことが浅はかであることにも気づかず、そのちょっと、で己を支えようとしたわけだ。そりゃあ無理がある。わたしにあったのは小手先の技術だけで、足場なんてなかったんだから。



そうやって流れてきて、これからどうしていくんだろう。わたしが乗り越えなければならないのは、仕事でもなく(働いていくだけならばいくらでもできる)、これから先の未来でもなく(目の前におこったことなら考えて動ければ対処できる)、過去のそこの部分なのだろうと思う。



良い作品に出会うたびになにくそって思う。くやしいさ。わたしにはそんなすばらしいものかけないもの。わたしが人に自分のネタを話さないのは、からからな脳みそにやっとこふってきたそれを見せてしまったら、ただでさえからっぽなのに、余計にからっぽになっちゃうからだ。



己の才能のなさについての事実を並べてみたら凹んだけど、奇妙な幻想も自意識もきえた。たいしたものをかこうと思うからつぶれるのだ。たいしたものなんてかけやしない。ただ一字一字書くのみ。