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雑多な日記

2016年ふりかえり

大厄らしい一年
前半も後半もどたばたで、ああ、これがうわさの大厄・・・(ゴクリ)みたいな派手さがありました。いろんな事件が起こり、それを収束させることで手一杯でした。とくに身内のどたばたを解決せねばならないというのにはほとほと困り、しみじみお金を稼いでいてよかったと思わざるをえなかった。ひとの心の問題以外はお金があればたいていなんとかなると思ってしまう、と書けてしまうこともまた過ぎ去りし、というかんじで、過ぎてしまったことはもう2016年に全部置いて、2017年へ行きたいと思う。

 

そのわりに
いろいろなことに挑戦もさせてもらえた一年でしたね・・・みなさま本当にありがとうございました!

- 2016/03 十カラアンソロジー『十カラ!!!』ごはんさんと共同主催
- 2016/05 友人のアンソロのお手伝い(200

ページ越えの本を組むのははじめてやりました)
- 2016/05 おそ松短歌アンソロジー『UtaMatsu』に松短歌7首とエッセイを寄稿
- 2016/11 ごった煮文藝誌『YAMINABE Vol.1』主催・川柳連作を掲載
- 2016/11 『アニポエ Vol.4』川柳連作を寄稿
- 2016/12 『このBLがやばい! 2017年度版』選者で参加 レビュー記事もいくつか寄稿

 

さて、2017年
最近短歌のことが気になっています。今までもやっていたじゃないですか、といわれればそうなんですが、なんでわたしは短歌を作るんだろうなあ、と思って。なんでなんだろう。短歌やことばとの、今後のお付き合いをぼちぼち考えていきたいなと思ったりしています。

いま風邪を引いてるんですが、それでも胃腸炎にも大腸炎にも腎盂腎炎にも罹らず過ごせているので、優秀な年末です。そろそろお酒も飲みたいなあ。みなさま良いお年をお迎えください!

思い出にできるのは

去年の12月、まだ若かった友人が亡くなり、今日やっとお墓参りすることができた。広大な霊園の一角。誰かがきたばかりなのか、まだ枯れていないお花がそこにあり、誰かの痕跡があることに勝手な感想ではあるけれど、よかったと思った。

その友人とは半年ほど一緒に暮らした。いろんな事情があってそうなったのだけれど、今になればそれがよかったのか悪かったのかはわからない。こないだも書いたけれどできることは本当に多くないんだと実感せずにはいられない時間だった。

お墓の前に立っても、もういないのだ、という実感は湧いてこず、まだどこかで生きているような気がするし、思い出にはまだできないなと思う。思い出にできるのは過ぎ去ったことだけで、突然途切れてしまった時間についてはそこで止まってしまう。どこかで元気だといい、と祈ることもできない。

それでも、いま、いまこの時間がその友人にとってつらくないといいな、なんてことは思ってしまう。それはわたしの自己満足でしかないのだけど、それでも。まだそばにいるとき、すごく苦しんでいたから、そういう苦しみがなくなっていたらいいなと思ってしまう。

本当はたくさん悲しんで、折り合いをつけたり、そのひとを見送る過程が必要なのかもしれないけれど、まだそういう感じにはならない。

 

ただ今日が晴れていて、暖かくて、それはよかった。朝の霊園は静かで落ち葉に色づいてとてもきれいだった。

 

メガネが見つからない

さっきからメガネを探しているけれどみつからないので仕方なくコンタクトレンズをつけた。わたしは裸眼で両目とも0.02ほどであり、手のひらを顔の前数センチ程度にまで近づけないとしわが見えない。持っているメガネの矯正視力は0.5~0.6程度、コンタクトだと1.0くらいだろうか。仕事でコンタクトなのはパソコンを使うときにはそっちのほうが疲れないからで(メガネの重みってけっこう疲れるのだ)、家でメガネなのは、コンタクトの世界は鮮明すぎて逆につかれるからである。ちょっとぼんやりしていて、外せばすぐベッドに入れて、目もかわかない、メガネは良いことしかない。そのメガネがさっきから見つからない。

昨日性描写を伴わないエロスについて話していたけれど、結局わたしはファンタジーとしてのエロスしか安心して消費できないし、生身の人間をイメージできるもの、あるいはイメージしてしまうものについては楽しめないのだなと思ったりした。それは消費できるひとが云々という話ではなく、ただわたしは、という話である。このあたりの加減はひとによって異なるので、その違い自体はそっとしておきたいのだけど、こういう話をするときいつもついしゃべりすぎてしまって、あとになって「ああ…」と後悔することが多い。しゃべりすぎるとき、何か大事なものが損なわれたように思ったりする。なんにも損なわれていないよだいじょうぶ。そうは言うけれども、わたしの足は確かに誰かの足を踏んでいたな、と思ってしまう。足でなく、背中かもしれない。

ひどいうつでもなく、ただ怠けているだけであることはわかってはいても、最近ふと、生きているのがつらいな、と思う。積極的に死にたいわけでも、なんでもないので、わたしは明日も生きるのだろうが、なんで生きているんだろうな、と思ってしまう。なんのために。なんのために? なんのために、と考え出すと絶対もう死にたくなるやつだな、と思う。みんななんのためにとか考えていないんだろうか。たとえば大事なひとがいたなら死にたくならないんだろうか。あるいは守るべき存在があったなら? ひとでもいい。仕事でもいい。なにか、楽しみでもいい。そんなこともないのか。ひとりで、ひとりの、命を支えるということが、こんなにもむつかしい。自分の仕事の対価としてもらったお金で何かを買ったりすればいいのかな。そうしたらもう少し違うんだろうか。

すてきなものを身に着けるという発想がない。わたしは気が狂ったようにBLを収集して読むけれども最近それも電子書籍に切り替えたので、なんとなくスピードは落ちている。電子書籍は紙書籍とは同時発売でないことが多いので。あと、紙でしか出ない本もあるので(もちろんその逆もあるが)。何故BLを読むのか、それももう最近あいまいだ。ただそこに夢を見ている気持ちだけはわかるのだけど、絶対に手に入らないものだな、ということが最近わかってしまって、夢を食べるのにもつかれたな、と思う。食べても食べてもおなかはいっぱいにならない。

ひとに会えば元気だ。会うのも好きだし、ひとのことも好きだし、たのしい。でもいつもわたしはこんなにからっぽで、と思う。こんなにからっぽで、これからどうしていくんだろう。仕事は好きだ。任されていることだってある。でも。なんでこんなに空虚な気持ちなのだろう。何を見ても、何をしても、いつもどこかむなしい。たのしくて、自分がからっぽなことがわかってむなしくて、さみしい。

これを書いていることに何の意味もなく、ただの甘えだろっていう声がどこからか聞こえてきて、そうですね以外の言葉がない。その通りです。

せめてメガネくらい見つかってほしい。そしたらちょっと元気出すから。

出来ること、出来ないこと

2016年も終わりに近づき、残り2ヶ月と少し、毎日が高速で過ぎていくので、一生もこんな風に終わっていくのか・・・みたいなセンチメンタルを抱えそうになるのはさむいからかもしれない。

日々は平和でありつつも何も事件がないわけでもなく、過ぎたことを振り返るとき、ああ相手のためにできることは本当に多くない、としみじみ思ってしまう。わたしたちがルームシェアをできているのは、まだ若く、体力もあって、稼ぐことにも今のところ困っておらず、自分のことは自分でやる、というルールが徹底できているからであって、それが崩れるとき、本当に脆くこの生活は終わるのかもしれない。相手のことが好きだとか、嫌いだとか、そういう感情の問題でなく、日々をどう暮らしていくか、それを支えられるのか、という現実が目の前に現れるからだ。

基本的に腐ハウスは日々のもろもろについて、「自分のことは自分で」をベースに「できる人がやる」というふんわりしたルールを採用している。当番制にしないのは個々が臨機応変に動いたほうが効率が良いからだ。だがそれもあくまで、みなが元気である、ということが条件になると思ったりする。けっこうシビアな条件だと思う。どんなに気をつけようとも、できる限りの努力で何かしらの悪いことを回避しようとも、病気だったり事故だったり、よくわからない厄災だったり、外から訪れるものについては本当に避けようがない。そればかりはわからない。

去年から今年にかけて起こったいくつかのかなしいこと。ここに書けることはほとんどないのだけれど、わたしはやはり「約束」は必要なんだろうと不意に思ったりする。それは「契約」と言い換えてもいいものなのかもしれない。

わたしたちの間には互いの生活を支える契約はない。あるのは自分ひとり分をきちんと支えたうえでシェアできるところはしていきましょう、という認識だけだ。誰かを背負う必要がなく、背負わせたいとも思わない。ただひとりで生きている個人が群れになっているのが実際であって、このままずっと一緒に暮らしていくんじゃない? という話をふざけてするけれども、そんなのはわからない。絶対にわからないのだ。ある日突然何かが起こることは往々にしてあるので。

それでも毎日できるかぎり楽しく暮らしたいし、助けられることも少しだったならあるだろうと思う。助けられるように準備もしておこう、と思うのも確かなのだ。それがかすかな希望であって、続けたいと思うならできる限り健康で、毎日淡々と無茶せずいきたい、と思ったりする。

 

つれづれ

仕事。にわかにバタバタしているけれど、薬をきちんと飲んでいるから調子は良い。薬を飲んでいるときと飲んでいないときの落差が大きくて、薬は必要だと思うけれども飲まなくなったときどうなるんだろうなあと思ったりする。つらいときは飲んでいいよ、と先生は言うけれど、つらいときとつらくないときの加減がいまいちわからない。

川柳を作り始める。無季俳句では、と友人に言われたのだけれど、川柳の自由なかんじが良いな、と感じて、しばらく川柳と言い張ってやってみようと思う。俳句は景を詠むもので、川柳は人事が基本とのこと。まだその感覚がわからないけど、やってみようと思う。

20160908

うすやみが切りひらかれてゆく目覚め

イヤホンの隙間にいくつかの子ども

回転をやめられずにいるのモービル

まぼろし 夕べの青をとぶクジラ

剥けないと渡されて研がれたナイフ

 

ぼくたちは点滅するひかり

夕飯はコンビニで買ってきたお鍋に麦ごはんを入れて食べ、頼まれた原稿のことを考えながら、資料の漫画をぽつぽつ読んだ。大好きな漫画なので持っていないはずがないのだけれど、誰かに貸しているのか見当たらなかったのでもう一度買った。こういうことはよくある。好きだと思ったら「これ読んで」と周囲に押し付けてしまうところがあり、そうするうちにもう一度読みたくなって買う、ということの繰り返しなのだ。だから本当に好きな本は必ず2、3冊ずつ持っているか、「もう一冊持ってるから」ともらってもらう。

ここ数日で、BLはリアルではないという言説を見かけ、そうかなあ、とぼんやり考えていた。「BLっていうのは積極的にデフォルメされた世界であって、たとえば肉体の汗の匂いみたいな話ではない*1」。そうだろうか。そうなんだろうか。それはBLだから、ということではなくて、BLの中にもいろんなお話があって、その一部、というのが正確なところで、そうでなかったら今こうして手にしている物語はなんなのだろう。

紙にはばまれてわたしはその空間に降り立つことはできないけれど、その物語を読んで、生き生きと描かれたキャラクターに共振する自分は確かにいて、それはわたしにとっての現実であり、それこそ肉体の厚みであり、においであり、他者の呼吸である。他者という存在そのものである。それは、長い雨に不意にだれかの存在を思い出すときだったり、だれかと触れ合ってなんともいえないズレを感じるときの感情と何ら違いがない。そういう生のふるえとともにことばは生まれ、そうしてこぼれた言葉は、BLであろうと、男女の恋物語だろうと、百合だろうと、恋愛だろうとなかろうと、「現実」と線引きされるものではないのではないか。

BL云々、ということではなくて、「(等身大の生や感触が作品から感じられることをよしとする価値観において、これらの作品群からはそれが)伝わってこない」というのであればすごくフェアだけど、最初から「BLだから」で線を引くことはただの偏見にほかならない。そうしてそういった言説が各所で繰り返されることは偏見の再生産だと思う。

カナさん*2、というBL漫画がある。作者はトジツキハジメさん。著者の「BL集大成」として2013年に出版されたコミックスだ。

主人公・ヒロセはバイト先である下北沢の居酒屋のトイレでバンドマン・カナさんと出会う。「自由が服を着て歩いている」ようなカナさん。「不満はないけど希望もな」く、「やりたい事も時間もない」というヒロセの世界はカナさんとひとつの秘密を共有してから次第に変化をみせる。

激しい恋のはじまりではなくじりじりとふたりの距離が近づいていくさまや、カナさんがその生を鮮烈に走り抜けていくさま、そのあとを追ってヒロセの世界がめぐり始めるさまが丁寧に描かれている。

どれだけ
時間が経っても
目に見えない
ものを
みんなが忘れても

ずっと思ってる

(「カナさん」トジツキハジメ『嘉那さん』より引用)

女性が男性の同性愛を描くことは闇雲に男性の同性愛者をネタにし、消費することだろうか。そんなのは「カナさん」を読んだら言えないはずだ。描くことが問題の根本ではない。腫れものを触るように無視すること、様々な作品のなかで存在がないものとされること、それこそ他者が消費しやすい「かわいそうなお話し」を背負った存在としてのみ描かれることは問題ではないのだろうか。差別に対するカウンターが描かれないことは? 差別を許容する、助長する描写についてはどうだろうか。それは現実と合わせて考えなければならないことだ。そして、他者の消費という問題については、多くの創作物が背負うもので、向き合うほかないものだと思っている。

BLというジャンルに限ったことではないのだろうが、作品のふり幅が大きいので、「BLは」と語るときはできる限り実際の作品を(商業作品に限らず)ひもといて語ったほうがいいと思う。BLは数多に出版されているから自分が良いと思う作品に出会うのは大変だろうと思うけれど、わたしも毎月自分の嗅覚と運と知識によりBLを買い続け、出会える喜びも出会えない残念さもかみしめながら宝探しを続けている。ふるえるものがない、それは仕方のないことだ。BLはすべてのひとを喜ばせるために存在はしていない。そこでしか読めないものを求めているひとのためのジャンルだから。そしてそこでしか描くことのできないものを描いているジャンルだから。

少なくとも詩はどこにでも宿る可能性があるもので、BLだから宿らない、というわけではない。「わたし」はもっと自由になれる、もっと、「わたし」から、固まってしまった「ことば」から。そう思いながらBL短歌をやっている。わたしだけではないだろう。みなそれぞれのひかりをもって立っている。それが遠く、近く、大きく、小さく、速く、ゆっくりと、ちかちかと点滅しつづけることが、文藝にとっての豊かさの継続だと思うし、そういうのがいいなと思うから、BL短歌をやっている。やり続けている。

つるぎを捨てる

正義とはとにかく悪という悪と、正義に加われなかった、加わらなかったものたちを引き裂いて、うまくいけば新しい何かを生みだすし多くのものを救うわけだけれど、そうして生まれた世界にわたしはいないのかもしれない。引き裂かれていくそのものであって、救われる存在としてのわたしはいないんだろう。

思想が走るとき、それにより作られたものはきっと剣であり、盾であり、時として爆弾であり、もしかしたら花でもあるわけだけれど、それを見るのがいまは少しつらい。つらい、と思う気持ちもまたうそではないので、そう思うことは間違っていないし、まあいいのだ、と思う。

本当にそれしかないのか。ずっと考えている。剣を振り上げるとき、踏みしめる足元にあるかつて戦ったものたちの亡骸のことを、増えていく亡骸のことを考えなければならない。それを考えずして起こる革命をどう捉えていいかわからない。正しさの残酷。そうだ、これは正しい、あなたは正しい、でもその正しさが救えないこと、取りこぼすものもあること。それを思う。

わたしはまだ戦うだろう。けれどもういままでの方法ではだめだ、と思う。正しさは強い。強すぎていろんなものを滅ぼす。求めるのは世界の拡張であって、清浄なものを求めているわけではないから、こういうのは今日で終わり。

さようなら、ありとあらゆるつるぎ!