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雑多な日記

つれづれ

仕事。にわかにバタバタしているけれど、薬をきちんと飲んでいるから調子は良い。薬を飲んでいるときと飲んでいないときの落差が大きくて、薬は必要だと思うけれども飲まなくなったときどうなるんだろうなあと思ったりする。つらいときは飲んでいいよ、と先生は言うけれど、つらいときとつらくないときの加減がいまいちわからない。

川柳を作り始める。無季俳句では、と友人に言われたのだけれど、川柳の自由なかんじが良いな、と感じて、しばらく川柳と言い張ってやってみようと思う。俳句は景を詠むもので、川柳は人事が基本とのこと。まだその感覚がわからないけど、やってみようと思う。

20160908

うすやみが切りひらかれてゆく目覚め

イヤホンの隙間にいくつかの子ども

回転をやめられずにいるのモービル

まぼろし 夕べの青をとぶクジラ

剥けないと渡されて研がれたナイフ

 

ぼくたちは点滅するひかり

夕飯はコンビニで買ってきたお鍋に麦ごはんを入れて食べ、頼まれた原稿のことを考えながら、資料の漫画をぽつぽつ読んだ。大好きな漫画なので持っていないはずがないのだけれど、誰かに貸しているのか見当たらなかったのでもう一度買った。こういうことはよくある。好きだと思ったら「これ読んで」と周囲に押し付けてしまうところがあり、そうするうちにもう一度読みたくなって買う、ということの繰り返しなのだ。だから本当に好きな本は必ず2、3冊ずつ持っているか、「もう一冊持ってるから」ともらってもらう。

ここ数日で、BLはリアルではないという言説を見かけ、そうかなあ、とぼんやり考えていた。「BLっていうのは積極的にデフォルメされた世界であって、たとえば肉体の汗の匂いみたいな話ではない*1」。そうだろうか。そうなんだろうか。それはBLだから、ということではなくて、BLの中にもいろんなお話があって、その一部、というのが正確なところで、そうでなかったら今こうして手にしている物語はなんなのだろう。

紙にはばまれてわたしはその空間に降り立つことはできないけれど、その物語を読んで、生き生きと描かれたキャラクターに共振する自分は確かにいて、それはわたしにとっての現実であり、それこそ肉体の厚みであり、においであり、他者の呼吸である。他者という存在そのものである。それは、長い雨に不意にだれかの存在を思い出すときだったり、だれかと触れ合ってなんともいえないズレを感じるときの感情と何ら違いがない。そういう生のふるえとともにことばは生まれ、そうしてこぼれた言葉は、BLであろうと、男女の恋物語だろうと、百合だろうと、恋愛だろうとなかろうと、「現実」と線引きされるものではないのではないか。

BL云々、ということではなくて、「(等身大の生や感触が作品から感じられることをよしとする価値観において、これらの作品群からはそれが)伝わってこない」というのであればすごくフェアだけど、最初から「BLだから」で線を引くことはただの偏見にほかならない。そうしてそういった言説が各所で繰り返されることは偏見の再生産だと思う。

カナさん*2、というBL漫画がある。作者はトジツキハジメさん。著者の「BL集大成」として2013年に出版されたコミックスだ。

主人公・ヒロセはバイト先である下北沢の居酒屋のトイレでバンドマン・カナさんと出会う。「自由が服を着て歩いている」ようなカナさん。「不満はないけど希望もな」く、「やりたい事も時間もない」というヒロセの世界はカナさんとひとつの秘密を共有してから次第に変化をみせる。

激しい恋のはじまりではなくじりじりとふたりの距離が近づいていくさまや、カナさんがその生を鮮烈に走り抜けていくさま、そのあとを追ってヒロセの世界がめぐり始めるさまが丁寧に描かれている。

どれだけ
時間が経っても
目に見えない
ものを
みんなが忘れても

ずっと思ってる

(「カナさん」トジツキハジメ『嘉那さん』より引用)

女性が男性の同性愛を描くことは闇雲に男性の同性愛者をネタにし、消費することだろうか。そんなのは「カナさん」を読んだら言えないはずだ。描くことが問題の根本ではない。腫れものを触るように無視すること、様々な作品のなかで存在がないものとされること、それこそ他者が消費しやすい「かわいそうなお話し」を背負った存在としてのみ描かれることは問題ではないのだろうか。差別に対するカウンターが描かれないことは? 差別を許容する、助長する描写についてはどうだろうか。それは現実と合わせて考えなければならないことだ。そして、他者の消費という問題については、多くの創作物が背負うもので、向き合うほかないものだと思っている。

BLというジャンルに限ったことではないのだろうが、作品のふり幅が大きいので、「BLは」と語るときはできる限り実際の作品を(商業作品に限らず)ひもといて語ったほうがいいと思う。BLは数多に出版されているから自分が良いと思う作品に出会うのは大変だろうと思うけれど、わたしも毎月自分の嗅覚と運と知識によりBLを買い続け、出会える喜びも出会えない残念さもかみしめながら宝探しを続けている。ふるえるものがない、それは仕方のないことだ。BLはすべてのひとを喜ばせるために存在はしていない。そこでしか読めないものを求めているひとのためのジャンルだから。そしてそこでしか描くことのできないものを描いているジャンルだから。

少なくとも詩はどこにでも宿る可能性があるもので、BLだから宿らない、というわけではない。「わたし」はもっと自由になれる、もっと、「わたし」から、固まってしまった「ことば」から。そう思いながらBL短歌をやっている。わたしだけではないだろう。みなそれぞれのひかりをもって立っている。それが遠く、近く、大きく、小さく、速く、ゆっくりと、ちかちかと点滅しつづけることが、文藝にとっての豊かさの継続だと思うし、そういうのがいいなと思うから、BL短歌をやっている。やり続けている。

つるぎを捨てる

正義とはとにかく悪という悪と、正義に加われなかった、加わらなかったものたちを引き裂いて、うまくいけば新しい何かを生みだすし多くのものを救うわけだけれど、そうして生まれた世界にわたしはいないのかもしれない。引き裂かれていくそのものであって、救われる存在としてのわたしはいないんだろう。

思想が走るとき、それにより作られたものはきっと剣であり、盾であり、時として爆弾であり、もしかしたら花でもあるわけだけれど、それを見るのがいまは少しつらい。つらい、と思う気持ちもまたうそではないので、そう思うことは間違っていないし、まあいいのだ、と思う。

本当にそれしかないのか。ずっと考えている。剣を振り上げるとき、踏みしめる足元にあるかつて戦ったものたちの亡骸のことを、増えていく亡骸のことを考えなければならない。それを考えずして起こる革命をどう捉えていいかわからない。正しさの残酷。そうだ、これは正しい、あなたは正しい、でもその正しさが救えないこと、取りこぼすものもあること。それを思う。

わたしはまだ戦うだろう。けれどもういままでの方法ではだめだ、と思う。正しさは強い。強すぎていろんなものを滅ぼす。求めるのは世界の拡張であって、清浄なものを求めているわけではないから、こういうのは今日で終わり。

さようなら、ありとあらゆるつるぎ!

おやのこのこころうんたら

 先週、右上の親不知を抜き、今日、左上の親不知を抜いた。

「順番に抜いていきましょうね」と言われていたのを長いこと放置していたのだが、ここにきて歯が痛みだしたので、治療ついでに親不知も抜いちゃおう、としつこく歯医者に通っている。

 歯が痛くないってすばらしい。さっきから血がとまらなくてティッシュ噛んでるんだけど、それでもなおすばらしいと思う。歯医者に通えることがほんとうにほんとうにうれしい。

 保険診療の範囲内なので毎週通ったからとてたいした額ではないのだが、そのたいした額ではない、そのお金がしぼり出せない時期がずいぶん長かったので、ちょっとしたことで、ああ、と思う。ああ、わたし歯医者に通えてる、としみじみしてしまう。

 飲み込めず吐くしかない血は鮮やかできれいだ。

 谷崎にも血便の美しさを描いた短編があって、というか本題はそれじゃなかった気がするけど、そのシーンがあまりに印象的だったのでわたしの中では血便を美しく描いた話、ってことになってしまっているのだけど、不意にそれを思い出したりした。

 あと、本仁戻の「飼育係理火*1」で、ヒロが口の中にネジをいれられて殴られた末、奥歯を歯医者で抜いてもらって帰ってくる下りがあるのだけど、それも思い出した。血がとまらないついでにじわじわ口の奥が腫れており、ヒロもこういうかんじだったんだろうか、いや、ネジいれられて殴られるほうが間違いなく痛いよな、みたいなことを考えてしまう。

 わたしのなかに積み重なってきた物語はこうしてときどき、自分の体験と結びつく。結びつき、思い出しては、わたしの思考はずいぶんと物語が出張ってるんだよな、と思う。

 以前、かばんの歌会に遊びに行かせてもらったとき、「この作品にはすべて下敷きがあるのではないか」という評をもらったのだけど(かりものの言葉、という評ももらった)、それは間違っていないよな、と思ったりする。わたしの作品はわたしの血肉になった(なっているといい)物語が材料でそれが自分の感情や視点と結びつき、さらに物語化して出しているところがあるので、わたし自身の声かというと「?」と思ったりもする。少なくとも「かりもののことば」ではなくなったらいいなあ、とは思うのだけれど。

 ここ1か月くらい、すこしばかりしんどかったのが、過ぎていっている気がする。薬を飲んでいるからかもしれないし、変わっていくことをやめているからかもしれない。

 焦らずに行きたい。

*1:正しくは人偏に火

できることなら負けつづけたい

争いが苦手だ。臆病者なので単純に怖い。できることなら戦いは回避したいし、あわよくば負けたい。卑怯者だといわれてもぜんぜんかまわない。勝つことに価値を見出せない。同時にいろんな場面において、戦えと言われ、これからもっとこわいことが起こるだろうと脅され、そうやって戦ってこそ何かを掴みとれるのだと言われてきた。そうなのかもしれない。それは正しいのかもしれない。そうやって強く生きていけという励ましなのかもしれない。だけど、掴みとった分だけ誰かの何かを奪ってきたのでは、とわたしは思う。だったらいらない。そんなものは要らない。本当に本当に要らないのだ。

野心を持て、と言われる。多くは仕事において。あるいは創作において。でもそれもわたしは要らない。というより、もてない、のかもしれない、というようなことを今日考えたりしていた。仕事は自分が食うのに困らないのならばそれでいい。というような、ようは「向上心のない」考え方をしているので、自分の欲望を展望や野心としてきちんと外に向けて発信せねばならなくなると、ひどくつかれてへとへとになってしまう。わたしの欲望など、おなかがすいた、ねむたい、が基本で、ひとにお話しできるようなものはほぼないのだ。いま自分が屋根があるところに住んでいるのはうれしい。ふとんがあるのも。仕事があるのも。布のたくさんつかわれたスカートが手に入ってうれしい。うつくしい靴をはくとそれだけでうれしい。と書くとわたしの欲望がとても幼いことがわかる。

わたしの周りには幾人かのとても賢いひとがいて、わたしが混乱しているといつもすっと手を差し出して助けてくれるのだけど、今日もまたそういうかんじだった。

大人になるときっともっとみんなうまく自分の欲望と向き合うことができるのだろうと思う。周りを見ているとそう見える。それはただ、自分は何がほしいのだ、と問い、答えを見つけることができる、求めるままに動くことができる、ということなのだろうけれど、それがひどくむつかしい。むつかしくて、ずっとできない。

いまわたしがほしいものは、雨の日の朝寝と、目に入るたくさんのみどり、毎日たんたんと進む仕事と、すこしのお酒くらいのものです。猫もいるといいね。そういう夢想をしてはじめてすこしほっとできるのであって、戦え、と言われるとき、ぜんぜんできないよなあ、できない、と途方にくれてしまう。最低限の、自分のいのちを守る以外は、これでいい、と思ったりしている。戦うのは目の前で何かひどいことが起こったとき、起こりそうなときだけだ。というか、それくらいしかできないだろう、とも思う。姿の見えないものとは戦えない。

一年弱ぶりに病院の予約を入れる。自分でちゃんといれられたのでえらい。
10代のころからうつ病とはつかず離れずでずっと付き合ってきているので、こういうちょっとしたこともまた、いつものことか、というやつなのだろうけれども、まあそれでもえらいよね。

そんなこんなで、なんとかかんとか生きています。

「ああ、なんてここは豊かな海なのだろう」

いやはや考えつづけている。

相変わらず松に狂っているので、昨日、なんとオンリーにサークル参加してきた。文フリには共有結晶関連でぽつぽつ出ていたものの、それはみんなといっしょだったので、まさか、自分がもう一回オタクイベントに出るようになるなんて! とびっくりしている。もう二度とやるもんか、みたいに思ってたのにね。本を出すことはやっぱり大変だったし、ミスもちょこちょこあったけれども、ひとりでやることの良さと、本を出すという区切りの不思議をかみしめている。(誰かとやるのがイヤって話ではなくてね)

二次創作好きだなあと思ったし、創作における上下みたいなのところから遠く離れて、それでも切磋琢磨していけるところだよなあとも思ったし、こうやって本当に離れてみないと見えてこないものだとか、解けない呪いもあるな、と思ったりした。

ものを作るということの深遠やきらめきみたいなものを昨日手に取った本のなかに見て、ああよかった、本当によかった、としみじみ思ったのだった。

世界線が交わらない

一昨日、家でひと付き合いの話をしていたのだが、今日あらためて、許せる部分、許せない部分、ひとそれぞれだなあと思ったりした。そのときは自分と同じ考えのひとと仲良くしたい、と考える場合と、自分とは異なる考えのひとと仲良くしたい、と考える場合とある、ということを主に話していて、ひとつの考えによりまとまっていくというのがわたし自身は少々よろしくないのではないか、という考えがあり、できればいろんな考えのひとと関わろうと思って~、なんてえらそうに言っていたのだけれど、結局のところ「その考えは嫌いだ」につきるのでは・・・・・・? と思ったりしている。

とどのつまり、わたしがいやだったのは、
なんで男性の一部って突然媚びてくんの? しかもなんで突然自分自身を消費させようとしてくんの? しかも暗に腐を見下してる発言しながら。ねーなんで?
そういう男性が無邪気に自分を消費させようとするとき、その無邪気さにくらくらするし、それは普段自分が消費される側にいないからなんじゃないかと思ってしまう。
あとそういう男性を持ち上げる女性の姿を見るのもしんどい。男性社会において、男性社会のルールにより評価されていくこと。「あいつはおれたちをわかっている、賢い女だ」と思われることに喜びを見出すこと。皆目わからない。
ということである。

そう思うと、わたしはそういうのイヤだなあと思うけど、別にイヤじゃない人もいるわけで、そりゃあ世界は交わらないわけだよなあと。だってそれも生存戦略のひとつなわけで。相容れない。つらい。

やーめた、っていろんなものから逃げても別にいやなものが消えるわけじゃないし、地獄みあふれる~とか笑ってても損なわれていくものもあるわけで、だったら自分のなかできちんと、「その考えは嫌いだ」と主張していくしかないのかやっぱり? というのが今日の見解。